愛する相手が余命わずか…「一緒に苦しむ」という幸せ【ペットロス】

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<16歳の愛犬を亡くした心理カウンセラーが考えるペットロス Vo.6>

 ケフィのいないはじめての夏がめぐってきました。ゴールデン・レトリーバーのケフィ(16歳)は、約1年の闘病の末に、今年1月に逝ってしまいました。

◆最期を共にできたのは、幸せなことかも…

 夏は、1年のうちでいちばんケフィとの思い出が詰まった季節です。水が大好きなケフィを連れ、まるで短い夏を惜しむようにできる限りあちこちに行きました。水遊びや川でのボール投げ、高原では気球に乗り、海ではカヤックをこいだり、シュノーケルをしたり。そして1年のうちで最も大きなイベントだった宮古島での長〜い休みがあったのも夏でした。

 今年はどれひとつする予定はありません。スケジュール帳はすでに仕事の予定で埋まっています。手帳を見るたびに幸せだった去年までの夏、でも、とっても遠い夏の日が思い出され「ああ、もうケフィはいないのだ」と、すうっと涼風が心の中を取り抜けます。

 そんな寂しさは感じますが、「最期を共に迎え、看取ることができるのは幸せなことではないのか」と、最近、思うようになりました。

 もちろん、自分の子どものような存在が、少しずつ弱っていく姿を見ることはとても辛いことです。私も「遠くない未来、当たり前のように続いてきた毎日が終わり、愛する者を失うのだ」と知りながら日々を送ることは本当に怖くて仕方がありませんでした。

◆余命わずかでも、どうにもできない無力感

 余命宣告を受けたケフィと暮らしていたときは、毎日「今日、何かが起きるのではないか」とおびえていました。「朝、目を覚ましたらケフィが冷たくなっているのではないか」と、何度も夜中に起きては確認し、出勤のときには「これがケフィと言葉を交わす最後の機会になるのではないか」と、不安でたまりませんでした。

 動物病院に預けていることも多かったので、携帯電話が鳴るたびに「病院からの電話かも知れない」と、心臓が止まる思いでした。

 どんなにしっかりと握りしめていても指の間から砂がこぼれていくように、静かに、でも確実に愛しいケフィの命が失われようとしている――それが分かっていながら、もう私にはなすすべがありませんでした。

 そんな現実のなかで、ときおり大きな無力感が波のように押し寄せ、息苦しくなりました。せいぜい私にできるのは、ケフィがなるべく苦しまないように対処療法を続けることくらいでした。できるだけおいしいゴハンと新鮮な水を用意し体力が落ちないようにしてあげることや、体やベッドを清潔にして快適さを保ってあげること。

 そばにいてできるだけ不安を感じないようにしてあげることや、苦しそうにしているときは声をかけたり、抱きしめたり、撫でてあげること。もう、そんなことしかしてあげられることはありませんでした。

◆共に苦しんであげられた喜び

 でも、今振り返ってみれば、そうやって一緒に最期の瞬間を迎える準備ができたことは「幸せなことだったのではないか」という気がします。

 老いていくこと、病気が進んで行くということはケフィにとっても恐怖だったはずです。目が衰え、耳が遠くなり、鼻も利かなくなっていく自分。立ち上がることができなくなり、排泄が難しくなり、ゴハンを食べることも難しくなっていく自分。息を吸って吐くことにさえ、膨大なエネルギーを使わなければならなくなっていく自分。

 そうやって死に近づいていく心細さを語ることができない分、よけいにケフィは死の恐怖をひしひしと感じていたのではないかと思うのです。

 そんな不安と苦しみのなかにケフィをひとりぼっちにせず、共に苦しんであげられたこと。愛する者をひとり恐怖に向き合わせるのではなく最期への道を一緒に歩んであげられたこと。それはとってもありがたいことだったのではないかと、本当につい最近、深く感じ入るようになりました。