By zoetnet

1961年から1989年までの28年間にわたって東西のドイツを二分にしてきた東西冷戦の象徴「ベルリンの壁」が、なぜ建設され、なぜ破壊されることになったのかをわかりやすく解説するムービーをTED-Edが公開しています。

The rise and fall of the Berlin Wall - Konrad H. Jarausch - YouTube

1961年8月13日の朝



東ドイツの建設作業員は、兵隊と警察に守られながら、ベルリンの至るところに壁を築きました。





これが歴史上最も悪名高い「ベルリンの壁」誕生の瞬間です。



壁の建設工事はそれから10年以上かかりました。



ベルリンの壁により街は分断され、場所によっては家族と離ればなれになった人もいます。この壁は物理的にドイツを二分しただけでなく、世界を二分する戦いの中で誕生したものとも言えます。



ベルリンの壁について知るには、第二次世界大戦までさかのぼる必要があります。



当時、アメリカ・イギリス・フランス・ソビエト連邦による連合国側は、ドイツ・イタリア・日本からなる枢軸国側と対立していました。



戦争終了後、ナチスドイツは解体され、戦勝国であるアメリカ・イギリス・フランス・ソビエト連邦の4か国がドイツ国土を分け合いそれぞれが占領統治を始めます。



アメリカ・イギリス・フランスの西側諸国は自由市場経済を促進しましたが、ソ連は自国と同じように占領下にあったドイツでも共産主義を推し進めていきます。



ソ連と西側諸国の関係が悪化し、西側諸国はドイツの西側に「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」、ソ連は東側に「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」を成立させました。



ソ連の衛星国となったドイツ民主共和国は、西側との移動および貿易を制限していたため……



ドイツの東側と西側には目には見えない壁、通称「鉄のカーテン」が存在していると言われるようになります。



ドイツ国内で最も難しい状況に置かれていたのが元首都のベルリン。



ベルリンは位置的には完全に東ドイツ側にありましたが……



第二次世界大戦後は連合国によって共同管理されていました。



よって、アメリカ・イギリス・フランスはベルリンの西部地区に民主的な独立地帯を作っていたのですが、東部地区に住む東ドイツの人々は、東部地区から出ることを禁止されていました。



そんな東ドイツの指導者たちにとって、何の隔たりもなく解放された状態になっている西部地区は大きな問題になっていたそうです。



そこで、東ドイツの指導者たちは西ドイツをナチス政権の後継であると批判するなどの策を弄します。



一方、西側のアメリカ・イギリス・フランスは西ドイツの復興に莫大な資金を提供していました。それに対して、ソ連は戦争の賠償として東ドイツから資源を巻き上げたり、経済的な競争力を失わせるような政策をとったりと正反対の対応をとるばかりだったそうです。



さらに、東ドイツでの生活は秘密警察のシュタージが盗聴と密告を用いて市民が不正行為を働かないか監視している、というとても窮屈なものに変わっていたそうです。



当時の東西ドイツを比べると、東ドイツでは無料で医療や教育を受けられましたが、西ドイツは給与が高く、嗜好品が多く、個人の自由が高かったそうです。



これらの積み重ねにより、禁止されているにもかかわず、1961年までに東ドイツの人口の約20%にあたる約350万人が西側に亡命したそうです。



その結果、これ以上の人材流出を防ぐために、東ドイツはベルリンの壁を建設することとなったというわけ。



ベルリンの壁は東西ドイツの国境沿いに43kmも伸びており、ベルリンの西部地区を囲むように112kmにもわたって伸びています。



初期のベルリンの壁は、フェンスと有刺鉄線で構成された簡易なものでした。



何人かのベルリン人はフェンスを乗り越えたり窓から飛び降りたりすることで西側に逃げることに成功しましたが、壁の建設が進むにつれてそれも難しくなっていきます。



1965年には高さ3.6メートル、長さ106kmのコンクリート製の壁が完成。



壁のてっぺんには登りにくくなるように滑らかなパイプが設置されていたそうです。



その後数年間で、ベルリンの壁周辺にはスパイクストリップや犬、地雷



302個の監視塔と20個のバンカーが設けられ、もはや壁を越えて西側に亡命することは不可能に思えるようになりました。



フェンスから100メートルの位置は……



「デスストリップ」と呼ばれるゾーン



このデスストリップ内に位置していた建物などは全て破壊されました。



これはデスストリップ内に侵入した人を国境警備隊がいつでも射殺できるように視界を確保するためだそうです。



それにも関わらず、1961年から1989年までに、東ドイツから越境した亡命者の数は5000人にも及びます。



亡命者の中には外交官やアスリートもいましたが……



ほとんどは一般市民で、トンネルを掘ったり運河を泳いだり熱気球で空を飛んだりして越境したそうです。



中には盗んだ戦車で壁を破壊して亡命した人もいる模様。



しかし、もちろんのこと、亡命には大きなリスクがつきまといます。亡命中に死亡した人の数は138人。



ベルリンの壁は労働力の流出を防ぎ東ドイツの経済を安定させることにつながったそうですが、東ドイツの評判を落とし、世界的な「共産主義的抑圧」の象徴となりました。



その後、1972年には東西ドイツ和解の一環として東西ドイツ基本条約が締結されます。



これに伴い、東ドイツ政権は少しずつ家族訪問の機会を許可していきます。



しかし、困難な手続きと高い手数料を設けることで、実施が難しいものになるように仕向けられていたそうです。



それでも多くの人々がこの権利を行使しました。



そして1980年代の終わり頃、東ヨーロッパ諸国で民主化の動きが加速します。



相次ぐデモなどで徐々に共産主義に崩壊の兆しが見えてくるようになります。



そして1989年11月9日、東ドイツは「旅行許可に関する出国規制緩和」を発表。



しかし、この発表により東ベルリンの何千人もの人々が壁の検問所に殺到します。



そして国境警備隊に検問を開けるよう促すこととなり、警備隊はやむなく国境ゲートを開放。



東ドイツ側から多くの人々が西側に流れ込み、両国の人々がベルリンの壁の上で喜びを分かち合いました。



さらに、手当たり次第に壁の破壊もスタート。



国境警備隊の兵士はすぐさま秩序維持に努めますが、時既におそしで、東西ドイツを隔てるベルリンの壁崩壊となります。



そして1990年の10月、正式にドイツは再統一されます。さらに、その後すぐにソ連は崩壊。



なお、現在も一部の壁は街中に残されたままになっています。