「完成度の高さは、皆さまの予想を超えてきます」(ジャパンプレミアへのビデオメッセージより引用)。8月4日の公開直前に原作者の荒木飛呂彦はこう太鼓判を押した。

参考:山賢人が見せた、陰影に富んだ身体の魅力ーー『好きな人がいること』をどんな結末に導く?

 確かに映画は出だしから快調なスタートを切っている。撮影地であるスペインの港町シッチェスのロケーションの魅力はさることながら、ワンカットワンカットが見事な画面設計でテンポよく運ばれていく。いかにも平和そうな街並は「住んでみたい町ランキング」の上位に認定されてはいるものの「不良」がいてもおかしくはないという設定である。この「杜王町」に引っ越してきたばかりの広瀬康一(神木隆之介)が颯爽と自転車を走らせている。神木のイメージ通り気弱そうな少年はやはりリーゼント頭の不良たちに行く手を阻まれる。一触即発の状況。そこへさらなるリーゼント頭の少年が登場する。彼は意外にもすんなり通りすぎていくのだが、先の“ミニ”リーゼントの不良どもにその強烈な“ボンバー”リーゼントをからかわれ、火に油が注がれる。そこで「スタンド」と呼ばれる形ある特殊能力を発揮する東方仗助(山崎賢人)は、たちまち敵を打ちのめしてしてしまう。映画の摑みとなる仗助の登場からこのノックアウトまでをわずかなカット数で片付けてしまう三池崇史監督の手際のよさが凄い。開巻早々のアクション・シーンの正確さは熟練の「職人監督」が得意とするところでもある。  こうしてさりげなくもインパクトのある正確無比な演出によって山崎賢人は圧倒的な存在感を放ちながら登場する。しかしそんな清々しさとは裏腹に山崎には演技面での「苦悩」があったようなのだ。監督のインタビューを引用してみる。 「他の作品での彼とは明らかに違うから、山崎くんなりにすごく苦労はしていると思うんです。(中略)訓練して声色を変えて仗助に似せているっていうよりも、なんとか仗助に近付こうとしている、探っている。極端に言えば、本番の撮影で探していて、僕はそれもいいと思う」(劇場用パンフレットより引用)

 山崎賢人が直面した苦悩とはつまり、原作漫画内の二次元キャラクターを実際に生身の人間(三次元)が演じることにつきまとう適応の難しさである。映画では、生身の俳優の姿が大きくスクリーン上に映されるために原作キャラクターの個性的なキャラ設定よりも俳優その人にやはり目がいってしまう。そうして生じる“ずれ”によって実写化作品はたびたび賛否を呼ぶことになるのだが、今回山崎は、「東方仗助」というマジカルなキャラクターを演じるにあたって、不調和をすり合わせるための「せめぎ合い」を繰り広げようとはしない。彼はとにかく原作のキャラクターに敬意を払っている。だからこそ監督が指摘するように“似せよう”とするのではなく“近付こう”とするのだ。山崎賢人の「ジョジョ」はそういう意味での「奮闘」を演じてはいる。  ではそのような“探り”の演技を実際の画面にみてみよう。仗助が祖父(國村準)と母親(観月ありさ)と三人で食卓を囲む場面。仕事の後の一杯に酔いしれる祖父は饒舌さを増していく。母はいつも通り応対する。その二人のやり取りに微笑みを投げかけながら黙々と箸を進める仗助。カメラはごく普通の家族の団欒を長回しで捉え続けている。しかし仗助は絶えず視線をどこかへ漂わせていることがわかる。これは東方仗助というキャラクターの何らかの心情を表現した“演技”ではなく、まさに本番中にキャラの在りどころを摑もうとする山崎の“探り”という、演者本人の迷いの心情が溢れ出たものだろう。ここでは言わば役者の「生身」が演じるべきキャラ以上に前へ出ているわけである。しかし、それを演技力不足だと指摘するつもりはない。監督も言うように、それはそれで山崎の魅力となっているのだ。これは一人の若手俳優の「演じること」へのリアルな葛藤を垣間みることができる、ある意味「奇跡的な」瞬間だとさえ言える。

 しかし山のそういう弛まぬ精神力が実を結んでか、映画のラスト、仗助が血縁上は彼の甥にあたる空条承太郎(伊勢谷友介)にある決意を告げる場面では、俳優とキャラクターとが見事なバランスをとりながら調和していた。海辺で潮風を頬に受ける生身の山崎賢人と勇敢な警察官であった祖父の意志を継ぐと心に誓う東方仗助。そこへ射し込むスペインの陽光が彼らを二重に焼き付け、スクリーン上に浮かび上がらせる。わたしたち観客は最後の最後であまりにも輝かしい「ジョジョ=山崎賢人」の姿を目の当たりにする。しかし筆者の目にそれはさらに、「第二章」(次回作)への清々しくも野心的な「俳優=山崎賢人」の強い意思表明のようにも映ったのだった。(加賀谷健)