写真:AFLO

 会社名にある「ベクトル」は学校の授業で習ったと思うが、簡単にいえば「物事の向かう方向と勢いのこと」。方向性が異なるときに「ベクトルが違う」というように使われたりする。
 

「人の行動を、方向と量にしたビジネスとしてちょっと意識したかった。ベクトルという言葉に馴染みのない人もいるでしょうが、覚えてもらいやすいと思って社名に使いました」と語るのは末松孝司さん(56)だ。

 工学博士、経営学修士(MBA)、東京工業大学大学院特任教授といった堅苦しい肩書からは想像できないほど気さくで、優しい笑顔が印象的である。

「私たちの仕事は人やモノ、情報の流れをシミュレーションすることで、地域社会や企業が抱える課題の解決に必要な対策などを提案しています。

 シミュレーションには『人の流れ』『避難』『交通』の分野があり、たとえば『人の流れ』ですと利用者の動線を見直すことで、商業施設の売り上げアップに貢献する提案や、駅構内での混雑緩和に役立つ提案をおこなったりしています。

 また避難シミュレーションでは移動手段やルートごとのシミュレーションをおこなうことで、最適な避難方法の提案をしてきました」

 ベクトル総研は2000年に設立されたが、当時シミュレーションを用いた解析自体が日本では先駆的だった。始めたころは「なんじゃそれ、みたいな反応でしたし、手計算でやっていました」。

 発起人となり会社設立を進めたのは末松さんだったが、末松さん自身は東急総合研究所の社員であり、ベクトル総研には技術指導という立場で関わった。

 末松さんは広島大学工学部土木工学科を卒業後、1984年に東急建設に入社した。1988年には会社の選抜留学制度により米国へ留学、マーケティング戦略を学びMBAを取得し、1991年に帰国後、復職。1994年に東急総合研究所へ出向。2000年には出向の立場から完全移籍し、ベクトル総研の設立に携わり、駅や大規模集客施設の旅客シミュレーション開発、震災時避難検証を主導した。

「会社を作ったときはずっと東急総研にいるつもりでいました。売り上げはトップに近く、独立などは一切考えませんでした。ただ、私が東急でやった仕事を形として残したいと思っていて、私がいなくなったら終わり、とはしたくありませんでした。人を育て、技術の蓄積をしていきたいと思ったのが会社設立のきっかけです。実際、東急総研の中ではこの仕事を拡張できる場がありませんでした」

 末松さんが営業をして、委託開発の形でベクトル総研の仕事を作っていったのである。その末松さんが東急総研を辞めたのには事情がある。東急グループの東急総研に対する事業方針が変わり、グループ以外の仕事ができなくなった。シミュレーションは当初グループ内を対象におこなってきたが、末松さんの営業力もあり、グループ外の仕事が増え、9割方が外部の仕事となっていた。ゼネコン、三菱総研、全国の自治体等々。ディズニーシーにも当時としては画期的な仕組みで人や車の流れをシミュレーションして提案した。

「45歳のときに東急総研を辞め、別途設立したNPOとベクトル総研の経営に携わりました。そのときに東急総研の社長が東急電鉄の役員に、末松にはこれまでやってきたことをやらせたいと申し入れてくれて、ベクトル総研を譲り受けることができました。東急の懐ろの深さには本当に感謝しています。実績で自信はありましたが、東急の看板がはずれるという恐怖はありました」

 シミュレーションは将来を100%当てるものではなく、考えられるいくつかのケースを提示していろいろな試算の優劣をつけるものだ。

 しかし、2004年に発生したスマトラ沖地震による津波被害の検証から作った避難シミュレーションは、その後、何度か起きた大地震の際に正しいことが実証された。予測した場所に避難の渋滞が発生したのである。このときは津波が来なかったので被害はなかったが、渋滞状況はかなり高い精度で再現された。避難シミュレーションは体験することが重要である。それをいかに検証するかが、今後の大きな課題でもある。

「その後もいくつかの難しい局面で、さまざまな人たちに本当に助けられてきました。私の世代で終わらせずに、今後はこれまでの研究をベースにして技術革新に対応していかなければならない。シミュレーションも変わってくるでしょうし、それを使って防災や少子高齢化など、社会的な課題の解決に関心を持つ社員を育てていきたい。それが、これまで受けたご恩に対する私の恩返しかな……」

 起業して17年、社長業11年、末松さんの会社を背負う日々はまだまだ続く。
(週刊FLASH 2017年8月22日・29日合併号)