結婚したら、寿退社♡

一昔前まで、それは女性の人生における最初の小さなゴールだった。

家庭に入り、料理の腕を磨き、夫の帰りを待つ。

だが、2017年の東京で「専業主婦」は、本当に憧れるべき存在だろうか?




ついに勃発する、離婚レベルの大喧嘩


夫の康介の、一挙一動が気にくわない。

たまの休日に公園に行った時だけイクメンぶる。飲み会のペースを全く緩めようとしない。休みだからといって寝息を立てて寝ているだけ。そんなことが何度も繰り返され、志穂の中にふつふつと怒りが蓄積していく。

「私ばっかりが損をしている。」

社会との繋がりも失い、子育てはほぼ自分が一身に引き受け、夫は「お手伝い」程度でイクメンぶる。

掃除も洗濯も料理だってきちんとこなし、おまけに2歳児の育児までが全部自分の責任と負担だ。

こんなにも自分を犠牲にして頑張っているのに、お給料は貰えない。

対して、康介は昨夜も飲み会だった。今もひなが康介を起こそうとしているが、豪快に寝息を立てるだけで全く起きる気配がない。

もちろん、広告代理店で働く康介にとっては、飲み会も大事な仕事のうち。急な残業も休日出勤も仕方がない。頭では、分かっている。

だが、今朝のひなは目覚めが悪かったのかすこぶる機嫌が悪い。父親に構ってもらえないとわかると泣き叫び始めた。

「うぅーん…。」

寝ぼけたような、康介の声が聞こえる。やっと起きたか、とひなが食べ散らかしたテーブルを片付け、落ちているおもちゃを拾い、なんとか娘をなだめようと冷蔵庫からりんごジュースを取り出そうとしたその時だ。

「なぁ、志穂ー。俺、疲れてるんだから子供の面倒くらいちゃんと見てくれよ〜。」

康介が言い放った。

ぎゃあ、と火がついたように泣き叫ぶ娘。その声を聞かないようにブランケットにくるまりそっぽを向く夫。
自分の好きなことはすべて後回しで尽くしている家族の現実に、志穂の我慢はとうとう限界を超えてしまった。


我慢に我慢を重ねて、ついに爆発


夫の言い分、妻の言い分


「…いい加減にしてよ…。」

志穂の手は、震えていた。乱暴にりんごジュースをテーブルに置き、康介の被っているブランケットを剥がした。

「ねぇ、この子は、あなたの子供でもあるの。面倒くさい部分は全部私に丸投げして、それでも父親なの?!」

一度溢れ出してしまった思いは、止まることはなかった。

「あなたも疲れてるかもしれないけど、私だって疲れてる、ううん、疲れてるどころか憔悴してるのよ!今だって起きてから2時間以上も経ってるのに、ひなの面倒を見ながら家事をしてるから今の今まですっぴんなのよ。自分のことなんて、全くする時間がないの!」




いつの間にか、涙が溢れていた。

自分がこんなにも大変で、育児でいっぱいいっぱいなこと、夫である康介からの愛情がどうしようもなく必要なことを分かってほしい。

だが、こちらを見返す康介の目は冷たかった。

「…出かけてくる。」

それだけ言うと、Tシャツにスウェットという姿のまま、家から出ていこうとした。

志穂は、思わず康介の腕を掴んだ。まだ話は終わっていない。

「いい加減にしろ!!」

そう言い放つと、康介は志穂の手を振りほどき、バタン、と大げさな音を立てて家から出て行ってしまった

怒りとショックで、涙が止まらない。

あんな康介を見たのは、初めてだった。

こんな状態では、自分たちはもう夫婦としてはやっていけないだろう。

その場に座り込んでしまった志穂の元に、いつの間にか泣き止んでいたひながやってきた。

「ママ、ママ。」

そう言って、頬を伝う涙を拭ってくれているのか、必死に自分の顔を触っている。

怒りと悲しみと、娘への愛しさでごっちゃになった感情がさらに溢れ出し、ひなを思い切り抱きしめた。

「おばあちゃんのところ、行こっか。」

ひなは大きく頷く。数日分の着替えを詰め、志穂は母に了解を得る前に家を出た。


同じ専業主婦である母に、志穂が反発する。


母こそが本当の勝ち組?


「ひなちゃんは本当に可愛いわねぇ〜〜!」

歳をとったとはいえ、50代になりたての母はまだまだ元気だ。ひなを見るなり嬉々として抱き上げてくれる。

この母といると、育児の負荷は半分どころかゼロに近くなる。何しろ、自分以外に娘をこんなにも愛してくれ、自分と同じきめ細やかさで接してくれる人間は他にはいない。一気に肩の力が抜けた気がした。

「何日かそっちに泊まりたいんだけど…。」

という志穂の電話を受けた母は、何も聞かずにとりあえず気晴らしにお昼でも、と実家と志穂の家の中間地点である表参道で落ち合うことを提案してきた。

「お散歩してひなちゃんが寝たら、あなたの好きなとこ行けばいいじゃない。」

休日の表参道は人混みで賑わっていて、先ほどまでの鬱屈とした気分が少し晴れたような気がする。

あれこれ話しながらキディランドまで足を伸ばした。おもちゃを買ってもらい、青山通りまで足を伸ばしているうちに、いつの間にか寝てしまったひなを連れ『カフェ・ラントマン』に入った。




「で、康介さんと何かあったの。」

オーダーを終えると、母はごくさりげない調子で志穂に尋ねる。

出産してから、志穂はこの母を見る目がガラリと変わった。

専業主婦として、子供を3人育て上げた母。

食卓にはいつもたくさんの料理が並んでいた。手作りの洋服を着せてもらい、頻繁にケーキやクッキーを焼いてもらった記憶もある。

怒ると怖かったが、優しく洗濯物の匂いがする母のことが、志穂は大好きだった。その思いは今や尊敬に近い感情に変化している。

「喧嘩でもしたの?」

そう続ける母に、うん、とだけ頷く。

というのも、働いてもいないのに子供1人の世話で手一杯となり、夫とぶつかった話をしても理解はしてもらえないだろうと思ったからだった。

だが、今はとにかく誰かに聞いて欲しくてたまらない。志穂は口火を切った。

「あの人、子供の面倒みるって言っても、申し訳程度に公園で遊ぶとか、その程度。それで、今朝もひなが起こしてるのに起きようともしない。毎晩遅いし、もうやっていけなくて…。」

ここ最近たまった鬱憤を、一気にまくしたてる。

「そうよね。そういう気持ちになることもあるわよね。」

母は意外なほど理解を示してくれたが、スヤスヤと寝ているひなに目をやりながら、諭すように続けた。

「でも志穂、いくら夫に不満があったって、離婚するわけにはいかないでしょう。」

図星だった。

もう夫婦間には以前のような甘い雰囲気はなく、子育ての負担はすべて自分にのしかかっている。

その気持ちを理解しようともせず逃げる男とは、もうやっていけない、というのが志穂の本音だ。スマホを見ても、康介は連絡をよこした形跡もない。

だが、いくらこんな男とはやっていけないと息巻いたところで、子供がいて、ましてや仕事を持たない自分がやすやすと離婚など出来るはずはないというのは十分すぎるほどわかっている。

「気晴らしならいくらでも付き合ってあげるから。ひなちゃん連れて、たまの息抜きに家に来てくれるのは全く構わないのよ。」

でも、と母は続けた。

「康介さんを置いて、主婦が家を空けちゃダメよ。」

母の言葉が、痛烈に響いた。

主婦となったからには、夫に従うのが当然なのだろうか。何を言われても我慢して、耐えて、常に家の中で夫を出迎える。

「あなたのお陰で生活できています」とへりくだり続ける、弱い立場。

そんな風に、自分の感情を押し殺して夫を支えるのが専業主婦だと言いたいのだろうか。

専業主婦になれば、煩わしいことから解放されて自由になれると思っていたのに、仕事をしていた頃の方がよほど自由だったのではないか。

そんな疑問が志穂の脳裏に押し寄せてきた。

ーそうなのであれば、そんなもの、もうやめてやる。

今まで漠然と生きてきた志穂の中に、密かな闘志が芽生え始めていた。

▶NEXT:8月24日 木曜更新予定
働き続ける親友の聖羅に刺激され、志穂も動き出す。