戦後72年。かの戦争体験の声が次第に聞けなくなっている今、証言者たちの“孫世代”の中に、声を拾い、研究を深め、表現をする人たちがいる。

 1978年生まれの研究者・広中一成さんは、1937年に日中戦争の中で起きた「通州事件」を再検証し一冊の本にまとめた。日本人居留民ら225人が殺害された大事件は、なぜ日中の歴史認識に翻弄され、忘れられたのか――。

 昭和史研究の第一人者・保阪正康さんとともに、この事件を今、改めて問い直す意味を語り合っていただいた。


広中一成(愛知大学非常勤講師)

保阪 今年で日中戦争が始まってから80年を迎えます。しかし、日本と中国の歴史認識を巡る争いはいまも続いています。特に1937(昭和12)年12月の「南京事件」は、犠牲者数を巡る議論やそもそもそのような事件は存在しなかったとする主張もあり、議論の的となっています。

 一方、南京事件の向こうをはった中国人の残虐性を象徴する事件として取り上げられるのが、南京事件の5カ月前の同年7月に起こった「通州事件」です。盧溝橋事件の直後、北京郊外の通州で日本軍の指導下にあった中国人部隊が反乱を起こし、日本人居留民ら225人を殺害した出来事です。重大な事件でありながら、実は実証的に掘り下げた研究はこれまでほとんどありませんでした。その通州事件を徹底的に調査研究し、昨年には『通州事件』という新書を出した30代の若い研究者がいると知り、ぜひ会ってみたいと思いました。

広中 ありがとうございます。通州事件は戦中、中国人の残虐性を伝える宣伝材料としてしきりに報じられました。ところが戦後になると、戦争のためのプロパガンダだったとして「忘れられた事件」となります。しかし、南京事件が1980年代にクローズアップされたことで、今度は「保守」系の人が、反論の材料として通州事件に注目したのです。まさに時代に翻弄された事件だといえます。

保阪 その雰囲気は実によくわかります。ここで告白してしまうと、私自身も南京事件や通州事件について積極的に論じることを避けてきたんです。これらの事件を論じると、常に他者に利用される。結果、史実を冷静に見つめる作業にはならず歴史を利用した「イデオロギー論争」になってしまうからです。


保阪正康(昭和史研究家)

広中 私もその風潮に疑問を持っていました。そこで歴史学として通州事件にアプローチをするべきだと考えたんです。盧溝橋事件の直後に起こった通州事件は、日中戦争における日本軍最初の失敗なんですよ。

保阪 そうですね。しかも、日本軍の判断ミスで民間人が大量に殺害されたことが重要です。私はこの事件の中にこそ、泥沼化し止めるに止められなくなった日中戦争を読み解く上で見逃せないポイントがいくつもあると考えているんですよ。客観的な情報分析の欠如、事前の兆候の見落とし、初期対応の失敗、責任回避、プロパガンダ合戦……。あらゆる要素が詰まっています。

反日感情を甘くみていた

保阪 現在では通州といっても「どこにあるの?」と思う人が多数だと思います。私は10年ほど前に取材で通州を訪ねたことがあります。北京市街から20キロほど東にある交通の要衝で、現在は北京市の拡大によって市内に含まれています。北京の中心部から地下鉄に乗れば20分から30分ほどで着く距離です。

広中 私も学生時代の2007年から5回以上、通州を訪ねています。現在通州では、2020年の完成予定でユニバーサルスタジオがテーマパークを建設するなど再開発が進んでいます。市街地を歩いてみますと、事件当時の面影はほとんど残っていません。唯一、主要な舞台となった冀東(きとう)政権の政庁の建物が現存しているくらいです。

保阪 その通州で居留民を殺害したのは、日本軍の指導下で通州の治安維持を任された中国人部隊「保安隊」でしたね。

広中 そもそも、なぜ中国人部隊が治安を担っていたのかというと、通州は1933年の日中間の協定で取り決められた非武装地帯で、中国側が治安を守る事になっていたからです。しかし、国民党軍がやったら中立にはならないので、新しい中国人部隊が必要になったわけです。そこで、優位に立っていた日本がねじ込んだのが、満洲を追われた人々。はじめは元馬賊が担い、事件当時はかつて満洲の事実上の支配者だった張学良の下で働いていた軍人たちが「保安隊」のメンバーになります。

保阪 張学良の軍隊は、満洲事変であっさりと日本軍に負けたために弱い軍隊というイメージがありますが、中国の軍隊の中では練度が高く統率も取れていたといわれていますよね。日本は顧問として日本の軍人を送り込むことで、保安隊をコントロールできる形にしていた。

広中 でも、考えてみれば当然ですが、彼らは満洲から自分たちを追い出した日本のことを恨んでいました。日本は反日感情を甘く見ていたのが最初の失敗でした。

 1935年になると通州に冀東防共自治政府が誕生しました。「民衆が国民党政府からの自治を望んだ」のが表向きの理由とされていますが、内実は中国から通州一帯を切り離そうとした日本の謀略。首班となった殷汝耕(いんじょこう)は日本に留学し親日派中国人として知られた人物で、日本人女性を妻にしていました。


親日派として知られた殷汝耕(右) ©文藝春秋

保阪 当時の参謀本部内部の資料を読むと殷汝耕を使って、通州周辺部の支配体制を確立しようとする様が実に詳しく描かれています。冀東政権の主要な機関には日本人顧問が配されましたから、満洲国と同様に完全な傀儡政権となったのです。

 そして通州には日本の民間人が次々と入っていく。事件時は多くの日本人が生活していたようですね。

広中 通州市街の人口は5万人ほどで、事件のひと月前の統計によると、日本人151人、日本の植民地だった朝鮮人が181人の合計332人が暮らしていたようです。冀東政権の役人や警官だけでなく新聞記者や一般の会社員、日本人向けの商売をする人とその家族、女性や子供までが住んでいました。中にはアヘンの密売にかかわる怪しげな人物もいました。

共産党の工作だった!?

保阪 このような街で、なぜ事件は起きてしまったのか? 私は、通州事件の直前に起こった盧溝橋事件と地続きの関係にあると思っているんですよ。日中両軍が盧溝橋で衝突したのは1937年7月7日。通州事件の20日ほど前のことです。ちょうど北京を挟んで盧溝橋の反対側にある通州は後方となります。戦乱がなく、平和が保たれていました。

広中 そうなんです。多くの日本人が戦禍から逃れ、安全な通州にやってきていました。ところが、7月下旬になると通州の雰囲気は一変します。通州郊外にいた500名ほどの国民党軍の部隊が、日本側への寝返りを画策しているとの噂が流れたのです。日本側がその部隊の指揮官に真偽を問いただしたのですが、一向に埒が明かなかった。

 疑心暗鬼になった日本は、7月27日に彼らに空爆をしかけます。ところが、日本軍の飛行機は彼らだけでなく、寝返りとは一切関係がない保安隊幹部訓練所を攻撃、保安隊員10名を死傷させてしまうんです。

保阪 その点なんですが、これまでの通州事件を論じたものによると、この誤爆によってそれまで親日派だった保安隊が、一転して「日本憎し」に傾いたとされています。

広中 確かにこの誤爆によって、保安隊の中から公然と日本への批判が巻き起こりました。しかし、先ほどもお話ししたように、保安隊はそもそも日本を快く思っていなかった。そこに誤爆事件が起こってさらに反日感情に火をつけたというのが、実際のところでしょうね。

保阪 それと同時に保安隊には国民党、共産党を問わず中国側から、日本を裏切るようにとアプローチが繰り返されていたようです。この件に関して、中国側の資料を見つけたそうですね?

広中 通州の東にある唐山地区の共産党の委員会が戦後に発行した内部資料を調べたところ、その辺りの情報が記されていました。のちに国家主席になる劉少奇は、工作員を密かに通州に潜入させ保安隊の指導者、張慶余(ちょうけいよ)に接触し「抗日救国の大義を理解させた」と書かれているのです。共産党が公式に反乱を起こさせたことを認めているわけです。


現在の通州 ©getty

保阪 私も思い出しましたよ。1982年になって張慶余の回顧録「冀東保安隊通県反正始末記」が発表され、日本でも話題になったんです。その中で、張は愛国心から反乱を起こしたと主張しています。共産党が自己宣伝のために話を膨らませていることが考えられますから、割引は必要でしょうが、保安隊が「抗日」運動に傾いていたことがわかる証言です。

 そして、29日午前3時ついに保安隊の約半数である7000名が、張慶余らに率いられ反乱を起こします。冀東政府の官庁を襲撃し、通州にいた日本軍の守備隊と戦闘状態になります。守備隊は圧倒的な形勢不利の中、徹底抗戦を行って一進一退の攻防が続きました。この戦闘の最中、保安隊による日本居留民への略奪や虐殺が行われたのです。事件後、城内に入った日本軍の日誌によれば、「道路上には日本居留民の死体が散乱」していたとある。

広中 無事に逃げ出した日本人によれば、保安隊は連行した人々を城壁の前の盛り土の前に立たせて銃殺をしていたこともあったと証言しています。最終的に軍人や官僚、民間人の合計225人が殺害されました。

(#2に続く)

ひろなか・いっせい/中国近現代史研究者。1978年、愛知県生まれ。2012年、愛知大学大学院中国研究科博士後期課程修了。現在は愛知大学国際コミュニケーション学部非常勤講師。著書に『ニセチャイナ』『日中和平工作の記録』『語り継ぐ戦争』『通州事件』。

ほさか・まさやす/ノンフィクション作家・評論家。1939年、北海道生まれ。同志社大学文学部社会学科卒業。昭和史に関係した4000人余りの当事者取材で得た証言をもとに作品執筆を続けている。著書に『死なう団事件』『東条英機と天皇の時代』『秩父宮』など多数。

出典:文藝春秋2017年5月号

( 「文藝春秋」編集部)