バーニー作戦で日本艦船を撃沈した米軍の潜水艦「スペードフィッシュ」(「Wikipedia」より)

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 フリーマントル。

 オーストラリア・西オーストラリア洲の州都であるパースの南西に位置する、決して大きいとはいえないこの港町には、太平洋戦争中、連合国軍潜水艦隊の基地が置かれていた。

 続々と出撃していく潜水艦が目標とするのは、いうまでもなく日本の船舶である。ここから出撃した潜水艦群は、太平洋に散らばる日本艦隊の行動を阻害し、輸送船団を次々と襲い、日本の戦争遂行能力を削ぎ取っていった。

 一方、戦争末期まで比較的安全に船舶の航行ができた海域があった。日本海である。米軍は、その海を「天皇の風呂桶(The Emperor's Bathtub)」と呼んだ。

●米軍、暗号解読で日本の定時連絡が筒抜けに

 日本海は帝国日本の“裏庭”に位置し、朝鮮と日本をつなぐ主要な交易ルートであるばかりか、満洲からの資源輸送や中国大陸に展開する部隊との貴重な連絡路でもあった。

 当然のことながら、その「出入り口」は厳重に守られ、佐世保、舞鶴、大湊の各主要海軍基地をはじめ、遠く千島列島は幌筵(ほろむしろ)に布陣する、キスカ島撤収作戦によって名を轟かせた第五艦隊などをはじめとする有力部隊が配されていた。

 また、1943年からは対馬海峡、宗谷海峡に総数6000を超える機雷群が敷設され、海峡を物理的に封鎖していた。

 対する米軍の潜水艦隊は、当初こそ魚雷の性能不良などの問題を少なからず抱えていたが、それも順次改良され、ドイツの潜水艦戦術を参考にした「ウルフ・パック」戦術の導入や新型のFMソナーの登場などにより、開戦時とは比較にならないほどの実力を備えるようになっていた。

 そして、着々と戦力を整えていた米軍は「天皇の風呂桶」に挑もうとしていたのである。

 米軍潜水艦隊による通商破壊に伴う相次ぐ輸送船団の損害に対処すべく、日本には海上護衛を専門とする「海上護衛総司令部」が組織された。しかし、立派な名前とは裏腹に旧式の駆逐艦や海防艦が中心であり、まれに小型の軽空母が配備されることもあったが、前述した米軍潜水艦隊の技術力の前に、なすすべなく撃沈されてしまっていた。

 また、定時連絡による自船の位置や航行状況の報告が遵守されたため、日本商船隊の暗号を解読していた米軍に自ら格好の餌食となっていた。

 その結果、日本は前線への兵員輸送はおろか後方への資源輸送船まで次々と失うことになり、手中にしていた南方資源の大部分が本土に届けられることなく、海の藻屑と消えていったのである。

 海上護衛総司令部は立ち遅れていた日本の船団護衛をなんとか立て直そうとした。しかし、そもそも開戦以来、南方資源地帯と日本本土を結ぶ輸送船は、集結前に余分な待機時間ができることで出港が遅れてしまうのを嫌い、単独航行を行う船が多く、船団を組むことはまれであった。

 そうした事情は、海上護衛総司令部における被害状況の把握を困難なものとし、その対策の立案と実行を遅れさせる一因となった。

 また、ミッドウェー海戦以後、次第に日本海軍が劣勢に立たされるようになり、ついに南方輸送路が事実上遮断されたに等しい状況に陥ると、食料の輸送が妨害され、国民の生活が圧迫されるようになる。

 この頃の日本は、本土において人口を賄うに足る十分な食料を自給することができず、多くを海外領土の朝鮮や台湾に依存していた。その食料輸送までもが途絶するとなると、もう戦争どころの騒ぎではなくなる。

●対馬海峡から米軍艦が侵入、“天皇の風呂桶”決壊

 興味深い話として、南方資源の輸送が完全に遮断された45年春、米軍の沖縄上陸以後に塩不足が懸念されたことがある。

 当時、日本の製塩方法は海水を釜で24時間炊き続けるという方法だったため、燃料がなければ塩をつくることができなかった。当時の政府の試算では、同年秋には家畜用、翌年には人用の塩の配給ができなくなると予測された。また、国内の食料生産も生産人口が徴兵されたことで停滞し、大凶作が予想されており、大陸との輸送路は文字通り「生命線」といえた。

 そこに襲いかかったのが、米軍潜水艦隊である。45年6月、日本軍に衝撃が走った。

「敵潜水艦、日本海に出現、佐渡沖にて輸送船撃沈さる」

 最新式のソナーを装備した米軍潜水艦が対馬海峡より侵入し、日本海での通商破壊をもくろむ「バーニー作戦」を発動させたのだ。

 すでに制空権を喪失して地方都市も空襲を受けるようになっていた日本は、敵の航空攻撃を警戒して船団を組んでいたのが功を奏し、「敵出現」の情報はすぐに海上護衛総司令部に入った。

 司令部の動きは素早く、ただちに増援部隊を派遣して周辺海域での掃討作戦を始めた。また、日本海に“退避”させていた自軍の潜水艦を瀬戸内海に呼び戻す措置を取った。

 この頃、日本近海の制海権は完全に米軍が掌握しており、さらに航空機からの機雷投下によって、太平洋はもちろん瀬戸内海すらも安全ではなくなっていた。そのため、海軍の本拠地である呉を擁する瀬戸内海から安全な日本海へ、艦艇を一部退避させていたのである。

 血眼になって米軍潜水艦を追う日本海軍と、各地の航路を襲いながら宗谷海峡に向かって北上する米軍潜水艦。その軍配は、米軍に上がる。潜水艦9隻で構成される米軍潜水艦隊は、1隻を喪失したのみで逃げおおせたのだ。日本の損失は潜水艦1、特設敷設艦1、商船・輸送船26隻。何より、それまで安全であった日本海でも船団護衛の必要が生じてしまったという事実が一番の痛事であった。

 ここに、「天皇の風呂桶」はついに決壊したのである。

●日本国民の命運を賭した「日号作戦」が発動

 こうした状況の下、政府は日本海の輸送路が途絶しないうちに、ありったけの船を動員して食料の緊急輸送作戦を行った。「日号作戦」と呼ばれるその作戦は、文字通り日本国民の命運を賭した作戦であった。

 海上護衛総司令部は、船団護衛の準備に汲々としながらも、ある悩みが頭をよぎっていた。燃料事情である。米軍の沖縄上陸以来、南方との輸送路は完全に遮断されて燃料事情は極限まで悪化しており、迎撃機すら、本土決戦のための燃料を節約すべく出動回数を減らすありさまであった。

 さらに、いわゆる「大和特攻」と称される戦艦「大和」以下、第二艦隊の沖縄派遣に際し、その燃料の一部が護衛艦隊に用いられるべきものが充てられたといわれている。結果として、護衛艦隊は4000tもの燃料を割り当てから減らされたのである。これは、護衛艦隊の当事者にとって、業務の大きな妨げである以上に屈辱的な出来事として記憶されたようだ。

 結果として、「日号作戦」は予定を超える量の食料を内地に運び込むことに成功した。しかし、すでに日本本土は米軍機動部隊の小型機が飛び回っており、もはや護衛艦隊では対処できない状況となっていた。

 戦前の食料事情を支えていた大黒柱のひとつは、日本海航路であった。そして、太平洋正面での華々しい海戦の裏で、日々、黙々と武器、弾薬、食料を運び、その船を地道に護衛し続ける海上護衛艦隊の奮闘があった。今、その骸は深い水底に沈み、何も語ることはない。
(文=井戸恵午/ライター)