これまでも日台の絆について様々な歴史的秘話をご紹介してくださった無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』の著者・伊勢雅臣さん。今回は第2次世界大戦中に日本に渡り、神奈川県大和市にあった「高座海軍工廠」で軍用機製造に携わった台湾少年工の知られざるエピソードが記されています。

台湾少年工たちの誇り

台湾高座会という団体が2013年5月9日、約250名ほどの会員を台湾から日本の神奈川県座間市に送り込んだ。先の大戦中、8,400余名もの15歳前後の少年たちが台湾から日本にやってきて、学びながら、神奈川県座間、大和の「高座海軍工廠(直属の軍需工場)」で軍用機製造にたずさわった。その人々が80代になって、再び来日したのである。

他の近隣諸国なら、これは戦時徴用で賠償を求める裁判に来たのか、と疑ってしまうが、この人々は違う。初来日から70年を迎える記念式典に参加するためである。

2013年4月に日本政府から旭日小綬章を受賞した台湾高座会会長・李雪峰さんは当時を懐かしんで、こう語る。

「小さい子どもだから(服の)ほころびを繕えないということで、農家のお姉さんやおばさんが、いらっしゃいよ坊やと言って、繕ってくれるんですよ。食料不足の中でも芋を一つ二つくれるんですよ。それを子どもたちが非常に大事に食べて」

こう語る元少年工たちは、日本でどんな青春の日々を過ごしたのだろうか。

「この親不孝者め」

少年工の一人、彭炳耀少年が父親に叩かれたのは、後にも先にも、この時だけだったという。

このバカ者め。親の許しもなく、みよりのない内地(日本)へ行くとは何事か。俺の印鑑を盗んで、志願書(海軍工員)に捺印することはもっての外である。この親不孝者め。

(『台湾少年工回想録』彭炳耀 著)

国民小学校の先生から知らされた少年工の話は、中等教育を受けつつ、工場実習で給料も貰え、衣服、食事、住居が支給され、5年後には技師になれるという好条件だった。それに当時の台湾少年にとって、内地は一生に一度で良いから行ってみたい、夢のような所だった。

あるクラスでは、受験者が30数人も出て、そのうち合格したのはわずか3人だったというから、競争率は10倍以上だったようだ。彭少年は無事に合格した。出発の際には、「お父さん行って参ります。お体お大事に」と挨拶したが、父親は何も言わずに、彭少年の顔を見つめるだけだった。

兄姉たちに見送られて、昭和19(1944)年4月2日夜、台北南西80キロほどの新竹駅から他の合格者らとともに専用列車に乗った。そして台南の高雄港から、輸送船に乗せられ、大荒れの海を船酔いに苦しめられながら、日本に向かった。

「全員一丸となって、懸命に働いた」

当時の高座海軍工廠は座間、大和など数村にまたがる30万坪の用地に、工員1万人を擁し、最新鋭の局地戦闘機・雷電を生産していた。このうち8,400人が台湾出身の少年工であった。

この頃は日本内地では15歳以上の男子はほとんど軍隊に志願したか、徴用工員として軍需工場で働いていた。そこで「台湾には日本教育を受けた優秀な少年がいる」との発案から、今回の募集になったのである。

10畳の10人部屋を2階建てで20室備えた木造寄宿舎に1棟200人が入り、それが40棟並んでいた。そこに4月頃から、台湾から到着した少年工たちが続々と入寮した。

彭少年は基礎技術をみっちり鍛えられた後、その夏には1,000名の少年工とともに、名古屋にある三菱大江航空機製作所に派遣された。そこでさらに約20日間、飛行機製造の基礎を叩き込まれる。

指導員は厳しい中にも思いやりがあって、少年工たちの腕はみるみるうちに上達した。彼らが作業に入るようになってから、生産は大きく伸び、廠長から団体表彰を受け、また個人表彰も数人受けた。三菱のお偉方からも「大人たちをはるかにしのいでいる。しかも優秀な飛行機を製作している」と直々に褒められた。

本廠(大江)にきている学徒兵、女子挺身隊、製作員、そして少年工たちも、全員一丸となって、立派な飛行機を1機でも多く生産するように、懸命に働いていた。…我われの作った飛行機が、任地で終戦になるまでに、1機も故障がなかったことを付記したい。

(同上)

「お前ら、俺を殺すなよ」

本拠地の高座工廠に残った少年工たちは、雷電の製作に携わったが、完成した飛行機はベテラン・パイロットが試験飛行をした上で、戦地に送られる。

ある時、試験飛行中の雷電が墜落するという事故があった。1万1,000メートルほどに急上昇した後、水平飛行に移ろうとした瞬間に、何の前触れもなく、突如、機首を真下にして、真っ逆さまに落ちていった。

テスト飛行をしていた森益基(ますき)兵曹は態勢を建て直そうとあれこれ操縦を試みたが、全く手応えがない。機体は瞬く間に4,000〜5,000千メートル落下した。

脱出装置の引き金を何度も引いたが、気があせっているせいか、びくともしない。なにくそと渾身の力を出して引っ張った時、落下傘と自動扉が開き、森兵曹の体は空中に押し出された。そのまま泥沼の田んぼの中に降り立った。脱出時に機体に頭をぶつけ、田に降りた時に、足を挫いただけで済んだ。

翌日、森兵曹は頭に包帯を巻き、松葉杖をついて、工場に現れた。少年工たちはお目玉を食らうのを覚悟して、恐る恐る森兵曹の周りに集まってきた。森兵曹は後に、この時のことを思い出しながら、こう語っている。

おそるおそると近寄ってきた、集まった坊主らのあどけない顔を、一人ひとり見ているうちに叱責するのを止めた。俺は笑いながら、「お前ら、俺を殺すなよ」と言い終わるや、きびすを返して工場の門を出た。

(同上)

その場に残っていた少年工たちは拍子抜けするとともに、森兵曹の態度に胸を打たれた。なかには「兵曹殿、すみません」と涙を流した者もいた。

故郷に帰れなかった少年工たちの慰霊碑

早川金次技手は、少年工たちと共に、高座海軍工廠の機械工場で軍用機の部品を製造していた。座間町の山の下に地下壕を掘って、工場全体がその中に入っており、昼夜交代で200名近くの少年工が作業をしていた。

高座海軍工廠で量産していた局地戦闘機「雷電」は、米国の超大型爆撃機B29迎撃のために名機・零戦の設計者・堀越二郎が開発したもので、8,000メートルまで9分45秒で上昇するという高性能を発揮していた。

この雷電が少年工たちを主力とする高座海軍工廠で、終戦までに百数十機が作られた。そして厚木の第302航空隊でB29爆撃隊を迎撃し、多大の戦果を上げたという。

昭和20(1945)年8月15日の終戦の後、早川さんはしばらく機械工場に残って、残務整理をした。9月5日、日本人の職員・工員たちはそれぞれの故郷に帰ることとなった。別れの日には、少年工たちは早川さんを取り囲んで、「早川技手、元気でいてください」と涙ぐんだ。

少年工たちは、翌昭和21(1946)年1月に日本の駆逐艦で台湾に送り返された。その日まで、高座海軍工廠内に保管されていた一万俵の米が少年工たちを饑餓から救ったという。少年工たちは自分たちだけで自治会を作って、統制ある行動をとっていた。

しかし、各地で爆撃に倒れたり、病死して、台湾に帰れなかった少年工もいた。早川さんは、母の名を呼びながら異郷で死んでいった少年工の霊を慰めようと、空襲で焼けた自宅の復旧を後回しにして、大和市の善徳寺に慰霊碑を建てた。

今も、かつての少年工たちが、個人で、またグループで来日すると、この慰霊碑をお参りしていくという。

「お詫びして頭を下げなければ」

同様に少年工たちと寝食を共にした一人に、野口毅・海軍主計少尉がいる。九州帝国大学の学生だった野口さんは学徒出陣には歳が足りなかったが、志願して海軍経理学校に入学し、高座海軍工廠に配属された。

士官用の宿舎は用意されていたが、自ら少年工たちと同じ寄宿舎に住み、いつも部屋のドアを開けていた。最初のうち、少年工たちは敬遠していたが、やがて部屋に入ってくるようになった。

戦後は故郷の九州に戻り、半世紀が経った平成5(1993)年4月、かつての友人から、元少年工たちが来日するという話を聞いて、矢も盾もたまらず、来日した元少年工たちと会った。

野口さんは、元少年工たちからどんな恨みや非難が出るかと覚悟していた。自分たちが復員した後、どのようにして生活し、どのように帰国したのか、それは想像以上の苦しみであったろう。お詫びして頭を下げなければ、と思っていた。

ところが、元少年工たちが口にしたのは、「大和は第二の故郷です」「この地で経験した試練は、帰国してからも自信となって、あらゆる苦難を克服することが出来ました」という言葉だった。

実際に、元少年工たちの中からは、銀行の頭取、大学教授、国会議員、中小企業の社長が輩出して、戦後の台湾の発展を支えたのである。

野口さんは驚いた。しかし、半ば信じられない気持ちだった。あたら青春を無為に過ごし、進学も出来ず、約束が違ったのではないだろうか、と。

しかし、元少年工たちは「当時のことが懐かしい。多年の念願でもあるので、有志そろって来日の予定です」という。2ヶ月後、その言葉通り、少年工としての来日から50周年を祝う大会に、台湾から大挙して来日した。戦後も日本に残った人たちと合流して、その数、実に1,300人であった。

靖国神社に祀られていた台湾少年工戦没者

野口さんは、早川さんの建立した慰霊碑を見て、戦没少年工のことを調べようと思い立った。各地に残っていた当時の記録を調べ、それらをつき合わせて、戦没者の名簿を作った。

その名簿を靖国神社に提出して、戦没少年工が英霊として祀られていないか、調べて貰った。その名簿と、250万柱の合祀者を照合するという困難な作業の結果、40名がすでに合祀されている、との通知を平成10(1998)年に受けた。

台湾出身者の少年工たちも、当時は立派な日本国民であり、かつ軍属であるから、空襲や病で倒れた場合は、日本人将兵と同様に、国家に命を捧げた英霊として祀られる。こういう所が、我が国の律儀さである。

私は記載された戦没台湾少年工の合祀者を一人ずつ、何度も見つめながら、思わず胸がいっぱいになり、溢れ出る涙をおさえることが出来なかった。

(『台湾少年工と第二の故郷』野口毅 編・著 展転社)

しかし、野口さんの調査で、12柱の少年工がまだ合祀されていないことが判明した。野口さんはこの12柱についても、「元高座海軍工廠主計少尉、野口毅」の名義により合祀の申請を行った。合祀の申請は、所定の審査を経た後、陛下に上奏されるという。

「皆さんは、恨みがましいことを一切言わない」

台湾高座会は「台湾亭」という台湾風のあずまやを工期4年、2,000万円の費用をかけて大和市の引地川公園の一角に建立し、平成9年10月22日に市に寄贈した。かつて、少年工6名が終戦直前に米軍機の銃弾に倒れた場所である。

将来、この公園を訪れる台湾人に対し、父や祖父の功績を偲ぶことができるように、また日本人に対しては、当時のことを忘れず、台湾との架け橋となるようにとの願いからである。

その引き渡し式のために来日した台湾高座会の代表40名に対して、野口さんは次のように挨拶をした。

当時の日本が、台湾少年工の皆さんにとって、感謝の対象であったとは私にはとても考えられません。それなのに皆さんは、恨みがましいことを一切言わない。逆に台湾の皆さんは、あのつらい体験をおのれの人生充実の糧として生きてこられた。

 

私はそれが今日の少年工の皆さんの、各分野における成功につながったと思います。台湾亭はそうした前向きの考え方、今でいうプラス思考の、堂々たる記念碑なのです。

 

人生にあの厳しい時代があり、それに耐えたからこそ今日の我々があるというこの考え方を、私たちは日本の若い青少年に知ってもらいたい。

(同上)

つらい日々に耐えた歴史を誇りに思い、それを糧として自分の人生に前向きに向かっていった元少年工たち。それを申し訳ないと思い、せめてもの償いにと慰霊碑を建て、靖国神社に祀る日本人の心。

歴史を偽造してまで賠償を求める他の近隣諸国とは望むべくもない、まごころの通い合いがここにある。

文責:伊勢雅臣

image by: 台湾高座会留日70周年歓迎大会実行委員会

出典元:まぐまぐニュース!