「南国土佐を後にして」を歌ったペギー葉山さん

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 作家・ジャーナリストの門田隆将氏が上梓した『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(小学館刊)。推薦する作家・五木寛之氏は「昭和の人々が次々と去っていく。さびしい。しかし、ちいさな幸せを大事に生きたペギーさんが紡いだ物語は、これからもきっと色褪せずに続くことだろう」と評した。運命という言葉だけでは表わせない「奇跡の歌」が辿った道とは──。(文/門田隆将)

 * * *
「えっ、まさか」

 全く予想もしなかったペギー葉山さん急逝のニュースが流れた今年4月12日、私は、4か月前のペギーさんへのインタビューを思い起こしていた。

 ある歌がつくりだした80年の長きにわたる一本の不思議な運命の「糸」について、私は取材を続けてきた。その集大成として昨年12月14日、都内のホテルで、彼女にインタビューさせてもらったのだ。その時、ペギーさんはその不思議な歌の運命について、私に熱く語ってくれた。

「運命の扉が、次に次に、と開いていくんですよ。私には歌の神さまがついているのかな、と思いました」

 ひとつの曲──それは、昭和33年12月、NHK高知放送局の開局記念番組「歌の広場」で歌った『南国土佐を後にして』である。

 その後、空前のヒット曲となり、それがきっかけになって、のちに東日本大震災の時に被災者たちを勇気づける歴史的な歌が生まれることになる。

 しかも、『南国土佐──』は、先の大戦のさなか、極限の戦場で兵士たちが生み出し、歌い継いだ“望郷の歌”がもとになっていた。ペギーさん自身もまた、その運命の歌に対して深い思いを抱いていたのである。

◆過酷な戦場の中で

 戦争に関するノンフィクションを数多く執筆している私にとって、中支、南支を二千数百キロにわたって行軍し、戦史に残る激烈な戦闘をくり広げた歩兵第236連隊は、いつかは書かなければならない存在だった。同連隊は、ほとんどが高知県出身者で占められていたため、部隊の通称号は「鯨」で、彼らは「鯨部隊」として勇名を轟かせていた。

 昭和14年に編成された同連隊には、延べ1万人を超える兵隊が所属し、戦死者は2千数百人に達した。行軍で脱落し、自決した人も少なくない。その過酷な戦場で「南国節」は生まれ、歌い継がれたのだ。

〈南国土佐を後にして
 中支へきてから幾歳ぞ
 思い出します故郷の友が 門出に歌つたよさこい節を
 土佐の高知のハリマヤ橋で 坊さんかんざし 買うを見た〉

〈月の露営で焚火を囲み
 しばし娯楽のひとときを 俺も自慢の声張り上げて 歌うよ土佐の よさこい節を
 みませ 見せましょ浦戸をあけて 月の名所は桂浜〉

 作者が誰かもわからないこの歌は、故郷土佐を遠く離れて戦う兵たちの心の拠り所となった。冒頭の「中支へきてから幾歳ぞ」という歌詞は、まさに兵たちの気持ちそのものであり、これを歌うことで、故郷に思いを馳せ、勇気を奮い立たせる独特の味があった。

 人間誰しも、家族に会いたい。親、兄弟、妻、子供……兵たちには、それぞれの家族がいた。果てしない行軍で、中国の山河を歩きつづけた兵たちは、故郷と家族を思い浮かべた。

(帰りたい)

 人であるかぎり、その思いは共通だ。しかし、それを口にすることはできない。その思いをまぎらわす方法は、この曲を歌うことだけだった。今年95歳となった鯨部隊の元騎兵、渡辺盛男氏はこう語ってくれた。

「この歌は、勇ましい歌ではなくて、しみじみする感じじゃね。行軍しながら歌うがよ。土佐のことを思いながら、みんな行軍しよったきね。歌なら小声で歌うがは誰にもわからんき、勝手よね。怒られもせん。気分がやっぱり違うわね」

 それは、兵たちの心の支えともいうべきものだった。

「昭和18年までは満期除隊ができた。けんど、それ以降はできんなって、誰も除隊を考えんようになった。それで、この歌をよけ歌う(多く歌う)ようになったがよ」

 渡辺氏は、そう振り返る。

「南国土佐は、それぞれが自分のことに置き換えて歌うたと思うわね。家のことを思うて“故郷の友”を“故郷の親父やお袋”に、それぞれが置き換えて、歌を受け止めるわけじゃからね。ええ歌じゃったと思うよ」

◆戦場のマスコット

 鯨部隊には、「豹をも飼いならす勇猛部隊」という異名があった。湖北省陽新県に駐屯していた第二大隊第八中隊に対して、地元の中国人が「豹が出没して人や家畜を襲うから退治してほしい」と陳情した。頼まれれば断れないのが土佐人だ。

 第三小隊長の成岡正久曹長が「俺に任せちょけ」と、三人の部下を連れて山に行き、命がけの豹退治をした際に、生き残った猫のように小さな豹を連れ帰った。

「ハチ」と名付けられた豹はどんどん大きくなり、兵たちになついてマスコットとなった。過酷な戦場で、人なつっこいハチは兵たちの癒しとなり、放し飼いのまま成長していく。育ての親である橋田寛一・一等兵に尾いて、町までとことこと一緒にやってくる“猛獣”に中国人は仰天する。

「豹をも飼いならす部隊」という異名は、鯨部隊の強さと優しさを両方表わすものとなった。

 しかし、ハチがやってきてから1年3か月後、大作戦が下令され、部隊は大移動を余儀なくされる。ハチの引き取り手を必死で探す成岡さんらの執念は、ついにはるか彼方、東京の上野動物園を揺り動かした。ハチは、中支からはるばる上野動物園に送られるのである。

 兵たちとハチとの別れの空間は、涙と『南国節』で満たされた。激戦に身を投じる兵たちは、

「ハチよ。俺たちの代わりに内地の土を踏んでくれ。おまんのことは、天国から俺たちがずっと見守っちゅうきねえ」

 生きて内地の土を踏むことなど考えられなくなっていた兵たちは、そう言って『南国節』を歌って、ハチを送り出したのである。

 中支の戦場からはるばる三週間の長旅を経て上野動物園にやってきたハチは、たちまち子供たちの人気者となる。ハチは、生まれてすぐに成岡さんや橋田さんら、鯨部隊の兵たちの愛情を一身に受けて育っている。そのために、自分を豹だと思ったことがない。それは、誰が檻に近づいてきても、優しい目をして近づいてきてくれる“不思議な猛獣”だったのである。

 だが、戦争の悲劇は、そんな心優しいハチの命を奪ってしまう。空襲が近づき、食料も乏しくなった昭和18年8月、ハチは「もしも」に備えて危険を除去するという方針によって、無情にも、ほかの猛獣26頭と共に毒殺されてしまうのである。

 戦後、かろうじて命を永らえて復員してきた鯨部隊の兵たちはハチの死を知って茫然とする。特に、成岡さんの衝撃は大きかった。成岡さんはハチの剥製を「どうしても引き取りたい」と上野動物園と粘り強く交渉し、ついに入手する。成岡さんは、自宅の床の間にハチの剥製を置き、寝起きを共にして、ハチの魂を鎮め続けたのである。ハチの剥製は、現在も高知市桟橋通にある高知市子ども科学図書館に展示されている。戦争の悲劇と人々の優しさを同時に表わすこのハチの物語を、ペギー葉山さんは重視していた。

「ハチはきっと兵隊たちと一緒に『南国節』を歌っていたのよね」

 ペギーさんはインタビューの中で、私にそう問うてきた。私は、「その通りです」と言わせていただいた。哀しさの中でも、人間の情の深さを伝えるエピソードをペギーさんはずっと心に留めていたのである。

◆「歌うか、歌わないか」

 そんなペギーさんが『南国土佐を後にして』を歌うまでには、大変な紆余曲折があった。

 高知在住の音楽家、武政英策さんがライフワークとして「土佐のわらべ歌」を採譜している際、高知県下どこに行っても歌われている『南国節』に出会った。また、高知市内の飲み屋でも、再々、この曲が歌われているのに遭遇している。

 鯨部隊の元兵士たちは、自分たちが戦場で歌い継いだこの曲を復員後も歌っていたのである。

 この曲の魅力に取りつかれた武政さんは、採譜して曲そのものをつくりかえた。「中支」を「都」に、月の「露営」を「浜辺」にといった具合に「戦争」の歌から「現在」の歌に生まれ変わらせたのである。そして丘京子さんや鈴木三重子さんという演歌や民謡を得意とする歌手に歌わせたが、話題にはならなかった。

 転機が訪れたのは、昭和33年12月、NHK高知放送局の開局記念として、人気番組「歌の広場」が高知で公開放送されることになった折である。「歌の広場」のプロデューサー妻城良夫さんは、この曲に目をつけ、しかも、ジャズ歌手として頭角を現わしていた25歳のペギー葉山さんに歌わせようと考えた。

 民謡調とも言える『南国土佐──』をジャズ歌手に歌わせるという発想は、妻城さん自身の経歴も関係している。青年時代にオペラ歌手を目指した妻城さんは専門的な声楽の知識がある。戦争から九死に一生を得て帰還した後、NHKの音楽プロデューサーとなった妻城さんには、『南国土佐──』を聴いた瞬間、「この曲はペギーのアルトだ。これをペギー節で歌えば、必ず“爆発”する」と考えたのだ。妻城さんには、ペギーさんのアルトによって表現される『南国土佐――』がいかに人々の心を捉えるか、手に取るようにわかっていた。

 しかし、ペギーさんはこの曲を歌うことに納得しなかった。民謡調の曲を歌えば、ジャズ歌手としての自分のイメージが崩れるからだ。頑強に抵抗するペギーさんと妻城さんの攻防が始まる。妻城さんは何度断わられてもあきらめなかった。出演のためにペギーさんがNHKにやって来る度に説得を続けた。

「ペギーさん、どうですか」
「どうかお許しください」

 そんなやりとりが、くり返された。だが、妻城さんの執念はすさまじく、トイレに行くペギーさんを待ち伏せしてまで説得を続けた。ペギーさんは、その時のことをこう語ってくれた。

「妻城さんの執念というか、私がトイレから出てきたら、廊下で待っていたんですよね。ほんと、くっつきまわられて……。妻城さんは、その頃、もう五十歳近い方でしょう。普段から、にこにこされている方なんです。本当に、仏さまみたいな方。でも、この歌に関しては、“突進”してこられましたからね。妻城さんは好きですけど、私はもう、本当にあのとき困りました」

 ペギーさんは、最後に「では、本番ではなく、終わったあとのアトラクションで地元の人にこの曲を歌ってくれませんか」と妻城さんに言われ、しぶしぶこれに応じた。しかし、それは妻城さんの“策略”にほかならなかった。

 本番前日、高知入りしたペギーさんは、本番台本に『南国土佐──』が入っていたことに仰天する。しかし、彼女はプロのシンガーである。台本が与えられれば、どんな場合でも、恥ずかしくない歌を披露するのがプロだと思っていた。

 こうして、いよいよ『南国土佐を後にして』を全国の人たちが知る歴史的な「時」を迎えるのである。

◆押し寄せる「波」

(しまった)

 ペギーさんは、本番で歌い始めた時、そう思った。会場が、シーンと鎮まりかえってしまったのだ。

(やっぱり失敗だった……私には、似合わない曲だったんだ)

 あまりにシンとした会場に、ペギーさんには後悔がこみ上げてきた。しかし、歌が「よさこい節」のくだりにやってきた時、うねりのような熱気が、ステージに向かって押し寄せてきたのだ。

(なに?)

 ペギーさんは歌いながら、その波のような圧力に驚き、そして、全身で受けとめていた。それまで経験したことがないものだった。観客の感動が、大きな塊となって、直接、自分にぶつかってくるかのようだった。ペギーさんは言う。

「初めは、この人、何を歌い始めたんだろうって、皆さん、そういう顔をしていたような気がします。私がいつも歌っているものとは違うなって。前のほうのお客さんは、顔が見えていますからね。私、やっぱりこの歌、歌うんじゃなかったなって、思ったんですよ」

 しかし、それは、まったくの勘違いだったのだ。

「そう思いながら、歌っていたら、『よさこい節』のところに来たときに、皆さんがウォーとなって手拍子してくれて、全員が歌ってくれたの。私、思わず歌詞を忘れそうになって……。一人一人のお客さんが温かく私に手を差し伸べてくれて、それが大きなうねりのように手拍子に変わっていったの。異様に熱い何かが、まるで波が打ち寄せてくるように、何度も何度も、私に迫ってきました。三番では、もう会場が大合唱で……。本当に、客席と舞台が一体になった感じでした」

 形容しがたい感動の中で、ペギーさんは三番まで歌いつづけた。それは、想像を超えた反響だったのである。

◆新たな運命の曲

「アメリカに南国土佐を歌いに来てください」

 空前のヒット曲となった『南国土佐──』は、アメリカの日系人たちにも届いていた。日米修好百周年を記念するイベントがロサンゼルスで開かれることになり、そこに招待されたのは、まだ26歳のペギー葉山さんだった。レコードが発売されて一年後、昭和35年のことだった。

 渡米直前におこなわれた作家の三島由紀夫氏との対談で、「ペギーさん、ロスに行くなら、ニューヨークまで足を延ばせよ。ブロードウエイがミュージカルですごいことになってるぜ。絶対に本場のミュージカルを観てこいよ」と言われた。

 ペギーさんは、ロスで『南国土佐──』を歌った後、ニューヨークに向かった。ロスの日系人は、ペギーさんが歌う望郷の歌を涙を流しながら聴いた。異国で頑張る自分たちの境遇や思いがこの歌への共感を巻き起こしたのである。

 ペギーさんは、ブロードウエイで「サウンド・オブ・ミュージック」の劇中歌『ドレミの歌』に出会う。

(この曲は………すごい)

 ペギーさんは、客席で動けなくなっていた。それは、身体が硬直して動けないほどの感激―とでも表現したらいいだろうか。優しい音階と、美しいメロディ、さらには、心の底から元気が出るリズムが、ペギーさんの心を鷲づかみにしてしまったのである。一度聴いただけでも、口ずさむことができるメロディだった。

 第一幕が終わった時、ロビーに出たペギーさんは、さらに驚くことになる。観客が、至るところで『ドレミの歌』を口ずさんでいた。

(感動したのは私だけじゃない)

 ペギーさんは、そのことを知った。そして、この歌を日本に持ち帰ることを決意する。譜面を買い求めたペギーさんは、その夜、ホテルで翻訳に挑戦する。

 ファは「ファイトのファ」
 ソは「青いそら」
 ラは「ラッパのラ」
 シは「しあわせよ」

 でき上がった時には、

「もうホテルの外の摩天楼が朝になっていました」

 ペギーさんは、56年前のその場面を、ほんの昨日の出来事のように、そう語ってくれた。この時、苦しみながら翻訳した『ドレミの歌』が、それから半世紀ものちに発生した東日本大震災で、打ちひしがれた人々に、大きな勇気をもたらす役割を持つことになる。

 被災者を励ます歌として、『ドレミの歌』は、東北各地で歌われた。ペギーさん自身も、戦争中に疎開していた福島県いわき市の大野第一小学校に、この歌を歌いに行っている。戦地の望郷の歌『南国節』が、ここまで姿とかたちを変えながら、現代につながっていたことにペギーさんは深い感慨を覚えていた。ペギーさんはこう語った。

「自分では、ただ歌うことが好きで、愛していただけなんです。『南国節』からの不思議な一本の糸がつながっていることは、本当に感じます。実際に次に次に、と必ず私の人生はつながっていったんです。ああ、これからは戦争も語り継いでいかないと、と思いますね。本当に今日はありがとう」

 にっこり笑ってくれたペギーさんが、まさか、この4か月後に亡くなるとは夢にも思わなかった。

 近しい人だけでおこなわれた4月16日の密葬で、棺の中のペギーさんの胸には、『南国土佐を後にして』の譜面が両手で抱かれていた。それを見た音楽仲間たちは、もう涙を止めることができなかった。

 誕生から80年。不思議な運命の糸は、これからも、しっかりと「つながっていく」に違いない。

●かどた・りゅうしょう/1958(昭和33)年、高知県生まれ。中央大学法学部卒。作家・ジャーナリストとして、政治、経済、司法、事件、歴史、スポーツなど幅広い分野で活躍している。『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)で第19回山本七平賞受賞。主な著書に『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』(新潮文庫)、『太平洋戦争 最後の証言(第一部〜第三部)』『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』(角川文庫)、『狼の牙を折れ 史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部』(小学館)、『汝、ふたつの故国に殉ず 台湾で「英雄」となったある日本人の物語』(角川書店)などがある

※週刊ポスト2017年8月18・25日号