『「東京DEEP案内」が選ぶ首都圏住みたくない街』(逢阪まさよし+DEEP案内編集部/駒草出版)

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●画期的な本

『「東京DEEP案内」が選ぶ首都圏住みたくない街』(逢阪まさよし+DEEP案内編集部/駒草出版)

 これは名著である。これから数年、私の座右の書となろう。

 よくもこれだけたくさんの街を歩いたものだ。都心をはじめ、23区内の街も多数扱われているが、三多摩、千葉、埼玉、神奈川の、普通は決して行かない無数の街、場末、ドヤ街が網羅されている。私も相当いろいろな街を歩いたが、とても叶わない。私はドヤ街にはあまり行っていないし、それ以外でも全然知らなかったこと、知らなかった街がたくさんあることに気づかされた(世田谷の高級住宅地・深沢に古い商店街があるとは!)。

 23区内の場末、ドヤ街、旧赤線、青線を訪ねた本は数多い。代表例は1986年に出た西井一夫の『昭和二十年東京地図』(筑摩書房)。また、旧赤線に限って全国を歩いた木村聡の『色街百景』(彩流社)などもある。だが、ここまで首都圏を広域に、細かく、名もない街を訪ね、フィールドワークした本は珍しいだろう。

●もうひとつの郊外

 本書は一種の郊外研究でもある。長らく郊外を研究してきた私が言うのだから間違いない。だが、私をはじめとする郊外研究者は、郊外を中流階級が住む新興住宅地を中心に調べてきた。しかしそれだけが郊外ではないのだ。

 フランスでは郊外は中流階級のサラリーマンが住む場所ではなく、移民を多く含む労働者階級の住む場所だ。近年、移民の2世が暴動を起こし、さらにはISに共鳴してテロリストになってしまうことが問題視されている。それくらい郊外には不満が鬱積している(詳しくは森千香子『排除と抵抗の郊外』<東京大学出版会>参照)。

 日本の郊外はイギリスやアメリカと近く、中流階級が住むのだが、よく見ると、それだけではない。フランス型の、外国人を含む労働者階級が住む郊外も、大正時代以来、半ば自然発生的につくられてきた。

 ただし、それは必ずしも住宅地というものではなく、川沿い、湾岸等の工場地帯のバラックだったり、簡易宿泊所、アパート、団地だったりした。それらの住まいが密集する地域が、本書の言う「住みたくない街」なのだ。

●均質化する都市への疑問

 だが、タイトルの「住みたくない街」は、単行本化に当たっての引っ掛けだろう。鉄道沿線別のコメントや、それぞれの街へのコメントも、活動の網羅性をアピールするために書かれただけのように思われる。二子玉川や自由が丘を揶揄するのも、著者でなくてもできることだ。

 それより何より本書の魅力は、やはり場末、ドヤ街などを扱った章だ。執拗に朝鮮人などの外国人や労働者階級が多く住んだ街を取り上げているので、彼らへの差別意識があるのかと疑われるところがないではなく、そこが嫌だという読者もいる。著者が本当はどう思っているのか私は知らないが、自身が大阪の湾岸の工場地帯育ちだそうだから、自然とそういうところに目が行くのだろう。
 
 著者は書いている。

「振り返れば、2011年の東日本大震災をはじめとする度重なる地震災害、2015年の川崎日進町のドヤ火災などさまざまな出来事を乗り越えて、日本の建築物はどんどん防災基準を上げて、丈夫で地震に強いながらも、一方で全てが計算され尽くした没個性的で面白みに欠けるものばかりに代わっている」

「粗末な家屋」であることを意味する「バラック」に対して、「ある世代以上であれば本能的に抱く昭和のノスタルジー」がある。「二度と換えが利かない懐かしい風景」「旧時代の儚い徒花とも言える」バラックのある街に対して、著者は「特殊な感情を覚えてしまう」。

「バラック建築の唯一無二性を感じながら、人が暮らす理想の住居とは、建物の様式美とは何なのか根本から考えるきっかけにしたい。荒廃した廃屋同然のあばら家なんぞ放火や地震による倒壊のリスクもあるし、あんまり家の近くに在ってほしくないというのが多くの人間の本音だろうが、もしかすると今しか見られないかもしれないこうしたバラック建築の数々に、今一度思いを馳せてみたい」(同書)

 ここに著者の「住みたくない街」への愛憎、そして再開発で新しくできる街への不満がよく現れている。

●新興住宅地の崩壊

 話が少し変わるが、現在、日本の犯罪件数は02年のピーク時の3分の1に減っている。テレビなどを見ると、常に恐ろしい犯罪が報道されているので、まったくそんな実感はないが、監視カメラの普及などのおかげだと思うが実際は犯罪は減っているのだ。

 だが、家族同士の殺し合いなどの現場として報道される容疑者の住む家をテレビで見ると、私はいつも不思議に思う。家がきれいなのだ。新興住宅地風の、新しくて、白くて、清潔な家だ。こんな家に住んで、どうして家族が殺し合うのか、こんな犯罪を犯す人々が住む家は、それこそ下町のバラックなら納得する、という差別的な固定観念が私の中にあるからだ。実際、私の子ども時代は、殺人、強盗というと下町が多かった(少なくともテレビ報道の記憶では)。

 その常識が崩れたのが、1980年、東急田園都市線の一家で起こった、金属バット両親殺害事件だ。殺された父親は、旧財閥系の超優良企業に勤める東大卒のエリートサラリーマンだった。
 
 象徴的に言えば、それ以来、陰惨な事件の現場が次第に下町から郊外の新興住宅地に移行していったような気がする。そして今はほとんどが新興住宅地のきれいな家が現場だ(これもテレビ報道を見る限りだが)。
 
 今、下町のバラックが舞台の事件があるとしたら、独居老人の孤独死くらいであろう。それだって古くなった郊外住宅地の団地やマンションでもかなり多いのではないだろうか。

●鬱積する負の感情を洗浄する

 我々人間の身体は、一部のファッションモデルやアスリートたちなどを除けば、みな不格好である。まして我々の心の中は、美しくもなく、正しくもない。むしろ、ゆがんでいて、どろどろしている。怒り、恨み、哀しみ、寂しさ、切なさ、不安、絶望などの負の感情が鬱積している。

 そういう人間にとって、「全てが計算され尽くした没個性的」な建築物は、本質的に合わないと私は思う。だが、「全てが計算され尽くした没個性的」な建築物の中で我々は「全てが計算され尽くした没個性的」な仕事をして働かなければならないし、「全てが計算され尽くした没個性的」な郊外ニュータウンの建て売り住宅やマンションを「全てが計算され尽くした没個性的」なローンを組んで買って住まなければならない。

 そこに不満がたまる。それこそが、我々が知らぬ間に、古い下町や、バラック街や、ドヤ街や、闇市や、赤線地帯へと誘惑されてしまう心理の根底にあるものだ。そうした街に行かなければ、我々は我々の心に相応しい場所に出合えない。精神の均衡を保てないのだ。

 とはいえ我々は、著者のように頻繁に街に出ることはできない。だから本書を読むことで街を訪ねた疑似体験をし、一種の心の洗浄をして、またつまらぬ日常に向かうのだろう。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)