昔から、ずっと考えていることがある。

「受け入れられないもの」「異質なもの」を、どう排除しないで日常に取り込んでいくか、ということだ。

 今の時代は、「共感できるもの」ばかりが広まってしまう世の中だ。昔から、当然そうだっただろうが、SNSなどの広がりによって、その傾向は加速度的に強まった。そのこと自体は、良いことだと思う。しかしその傾向が強まることで、「受け入れられないもの」「異質なもの」が、本人が意識しなくても自然と日常の中から排除されていってしまう、ということが、僕は怖いな、と感じられる。

 かつて学校というのは、気が合わない人間ともなんとか友人関係を結ぶ場だった。距離的に近い場所にいる人間としか出会う機会がなかった以上、共感しにくい相手ともどうにか折り合いをつける作法を、僕らは日常の中で身につけていったはずだ。

 しかし今は、学校で無理して友人を作らなくても、ネット上で気の合う仲間を見つけられる。そうなればなるほど、気の合わない人間と関わる意欲がどんどん薄れ、自分の周りには共感できるものしかない、という状況を生み出せる。それは怖いことなのだと僕は感じてしまうのだ。

 すれ違う、共感できない、理解できない・・・。そういう、現代では斬り捨てられてしまいがちなことの大事さが伝わる3作品を紹介しようと思う。

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感情が「見える」のにすれ違い

『』(住野よる著、新潮社)


『か「」く「」し「」ご「」と「 』(住野よる著、新潮社)は、5人の高校生を描く物語だ。5人全員が、何らかの形で他人の「感情」を視覚的に「見る」ことができる。たとえば5人の内の1人は、他人の頭の上にトランプの柄が見える。スペードは「喜」、ダイヤは「怒」、クローバーは「哀」、ハートは「楽」を表していて、それを見れば誰がどんな風に感じているのか、ひと目で分かるのだ。

 5人全員がそういう特殊な能力を持ち、さらに5人全員がそういう特殊な能力を持っているのは自分だけだ、と感じている。そういう設定の中で何が起こるのかを描き出す群像劇だ。

 他人の感情が見えるのなら、人間関係がもっとスムーズに行くのではないか・・・。そんな風に感じる人もいるかもしれない。けれど、この作品ではそうはならない。彼らはお互いにお互いの感情が読み取れるのに、それでもなお徹底的にすれ違っていくのだ。

 ある意味でそれは、当然かもしれない。なぜなら彼らは、感情を見ることはできるが、その理由までは分からないからだ。なぜ彼が今「嬉しい」のか、なぜ彼女が今「悲しい」のか。そういうことまでは彼らの能力では分からない。その感情が発露される原因をあれこれ考えすぎて、結局よく分からなくなる。そんな風に、彼らはすれ違っていくのだ。

 しかしこの作品の良さは、まさにそのすれ違っていく点にある。彼らは感情が見えてしまうが故に、他人との関わりについて余計に考えなければならなくなる。その過程で彼らはどんどんと、自分より他人のことを優先的に考える人間になる。しかしその一方で、自分「だけ」がズルをして他人の感情を見ているので、そういうズルに基づいてしか他人の気持ちを推し量れない自分自身のことを冷たい人間だ、と捉えるようになってしまう。他人の感情が見えてしまうが故のすれ違いも面白いのだが、自分と他人の捉え方によるすれ違いも作中で上手く描かれており、それらが入り交じったすれ違いが、学校という場で発露されることで起こる物語の展開が実に読ませるのだ。

「伝わらない」という経験の大切さ

『』(平田オリザ著、講談社)


『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』の著者、平田オリザは劇作家として著名な人物だ。それまであった演劇らしい演劇ではなく、口語による演劇を打ち出して世に広めた。そんな著者が、大学教授としてコミュニケーション教育に携わるようになり、その過程で感じてきた様々な違和感をベースに本書が書かれている。

 様々なテーマで語られる作品であり、そのすべてを語ることはできないが、本書の中心的なテーマである「コミュニケーション教育の問題点」についてここでは書いてみる。

 現在は盛んに、コミュニケーション能力の重要性が指摘されているが、そもそも若い世代には、コミュニケーションのための意欲が低下しているのではないか、と著者は指摘する。それを、こんな風に表現している。

<しかし、そういった「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子供の側にないのなら、その技術は定着していかない。では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
いまの子どもたちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足している>

 冒頭で書いたように、「受け入れられないもの」「異質なもの」を容易に排除できてしまう社会だからこそ、「伝わらない」という経験が不足する、と捉えることもできるだろう。

 あるいは著者は、一人っ子が多くなったために、子どもが言葉で伝える以上の内容を汲み取ってしまう問題も指摘する。子供が「ケーキ!」と言えば、ケーキを出してしまう。「ケーキがどうしたの?」と問うことがコミュニケーションに繋がるのだが、その機会が失われているというのだ。

 また、少子化の影響で、小学1年生から中学3年生まで、30人1クラス、ずっとクラス替えがないという地域がたくさんあるという。そういうクラスで、「じゃあ太郎君、今から3分間スピーチね」と言われても、太郎君には喋ることがない。

 なぜなら、

<表現とは、他者を必要とする。しかし、教室に他者はいない>

からである。

 コミュニケーション能力は確かに技術ではあるかもしれないが、しかし意欲のないところに技術は育たない。「伝えたい」という意欲を持たせることが教育として一番大事なことなのではないか、と著者は主張する。

 また日本には、こんな問題もある。

<日本では、コミュニケーション能力を先天的で決定的な個人の資質、あるいは本人の努力など人格に関わる深刻なものと捉える傾向があり、それが問題を無用に複雑にしていると私は感じている>

「コミュニケーション能力の欠如」は、決して人格の問題と直結しない。理科の授業が多少苦手だからって、リコーダーが吹けないからって、普通その人の人格に問題があるとは考えない。でもなぜか、「コミュニケーション」に関しては、それがうまくできないと人格に問題があるかのような見方をされてしまうことが多い。この点も、まずは教育の現場で変えていかなければならないのではないか、と著者は言うのだ。

 コミュニケーション能力をどう教育するか。その土台となる考え方が、本書を読むと大きく変わることだろう。

その場のルールが分かっていないのは自分だけ?

『』(穂村弘著、KADOKAWA)


 世界にうまく馴染めない人、というのはいる。本書の著者である歌人の穂村弘も、そういう人間だ。僕自身もそういうタイプで、だから、世界に対してどうしようもない違和感を抱き、それを様々な形で言語化できる穂村弘の文章を、僕は楽しいと感じる。

 日常の様々な事柄に対して違和感を覚えていても、僕たちはそこで生きていくしかない。狭いコミュニティの中の事柄に対する違和感であれば、コミュニティを外れて別のところに行けばいいが、それが大きな世界に対する違和感であれば、その違和感を呑み込んで生きていくしかない。

<文化祭でもキャンプでも大掃除でも会社の仕事でも、いつも同じことが起きる。全ての「場」の根本にある何かが私には掴めないのだ。現実世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなルールがみえない。何のための穴なのかよくわからないままに、どこまでも掘ってしまう。だが、わかっていないということは熱心さではカバーできないのだ>
『蚊がいる』(KADOKAWA)

 穂村弘は、自分の中に確信がない。確信を得ようと周囲を観察するのが、ルールらしきものが分からない。自分にはルールが分かっていないのに、どうも周りの人は特に説明もされないままルールを把握しているようで、その場に馴染んだ振る舞いをしている。いろいろと考えて、これかな、という行動をしてみる。でも、どうも違う。いや、はっきりとは分からないが、違うような感じがする。そういう雰囲気だ。でもじゃあどうすればいいのだろう?

 穂村弘はそんな風に世界の中で存在していて、それは僕も同じだと感じてしまう。

 世界は1つかもしれないが(複数あっても特に問題はない)、世界の見方はそれこそ山ほど存在する。その視点をたくさん持っていればいるほど、いろんな世界の中で生きることができる、といえるかもしれない。穂村弘は、世界に馴染むのが苦手だが、それ故にいろんな世界を見ることができる。穂村弘は、そんな風にして見た世界を、時に短歌で、時にエッセイで切り取っていく。

 分からないものを理解するために、人は言葉を磨く。その磨いた言葉が、より様々な世界に気づかせることになる。穂村弘には、いろんな世界が見えてしまい、ただでさえ世界に馴染むのが苦手なのに、余計に苦手になっていく。でも、その困惑みたいなものが、見ている方としては楽しい。

 穂村弘というのは、そういう困惑を実に見事にエッセイの中で描き出す。実に面白い。

筆者:長江 貴士(さわや書店)