「生まれてこのかた、常にスタジアムのすぐそばに住んでいる。離れられないんだ」
 
 そう言って微笑んだ。
 
 1990年代中頃、友人と共に「ラッサ・ヴェルジ」(緑のガッツ)というサポーターグループを設立。数十人のメンバーとアウェーゲームを含む全試合をスタンドから応援した。10年ほどでグループは解散したが「俺の人生は、常にシャペコエンセと共にある」と語る筋金入りのサポーターだ。
 
 妻のマリアさんは、アレッサンドロと交際するまではサッカーに全く興味がなかった。だが、「彼の病気が伝染して」熱烈なサポーターの仲間入り。7年前に結婚し、長男カルリーニョスくんが生まれると、一家3人で試合観戦に出かけるようになった。
 
 あるとき、アレッサンドロは旅先でインディオが頭に被る羽根飾りを見つけた。クラブのシンボルがインディオなので、「試合で応援するときに身につけよう」と思って購入。家で息子に被らせてみたら、とても良く似合う。そこで、スタンドでもその格好で応援させていたら話題になり、クラブ関係者から「マスコットボーイになってほしい」と頼まれた。
 
 もちろん快諾。試合前に選手と一緒に入場し、ハーフタイムにもピッチに出てきて観衆に愛嬌を振りまく。いまやシャペコの街で知らない人がいない有名人だ。「息子がマスコットボーイをしているのは、父親として本当に誇らしい。シャペコのことを、もっと多くの人に知ってもらいたい」と微笑む。
 
 だが、「事故を経て、今後、シャペコエンセをどうサポートするつもりか」と尋ねると、表情が一変した。
 
「俺も妻も息子も、亡くなった選手、監督、コーチ、役員たち全員と知り合いだった。彼らがもうこの世にいないことが、今でもまだ信じなれない。とくに息子は、いつも可愛がってくれた選手たちが死んでしまって、大きなショックを受けている」
 
 そして、こう締め括った。
 
「あの事故によって、クラブへの愛情は一層強くなった。監督、選手たちはクラブのために命を捧げた。俺たちもずっと命賭けでサポートする」
 
 シャペコエンセには、サポーターグループが4つある。このうち最大のグループが「トルシーダ・ジョーベン」(ヤング・サポーターズ)だ。メンバーは約250人、若い労働者や昼間働きながら夜間大学へ通う者が多い。最も熱狂的で、最も過激な集団である。事故直後、多くの者が仕事や学校そっちのけでスタジアムに集まり、敷地の一角で寝泊りしながら、昼間はクラブ応援歌を合唱し、チャントを絶叫してサポートした。
 
 なぜそこまでやるのか?
 
「シャペが俺たちそのものだからだ。ずっと全力でサポートしてきたけど、事故で亡くなった人々に恥じないよう、これまで以上に渾身の応援を続ける」

 代表を務めるフェルナンドは、そう答えて顔を引き締めた。
 
 彼ら以外の多くの市民、サポーターからも話を聞いたが、「悲劇的な事故によって、クラブ愛がさらに深まった。今後、何があろうとクラブを応援しつづける」という気持ちは、全員に共通していた。
 
 5月初旬、シャペコエンセはサンタカタリーナ州リーグの決勝(前期と後期の優勝チームがホーム&アウェーで戦う)で宿敵アバイと対戦した。ともに敵地で1-0の勝利を収め、トータルスコアは1-1。その結果、前後期の通算成績で上回ったシャペコエンセが、2年連続6度目の優勝を果たした。事故後、初めて獲得したタイトルとあって、市内の目抜き通りは車が通過するたびにクラクションが鳴り響き、沿道では人々が大きなクラブ旗を振り回して大騒ぎ。祝祭は深夜まで続いた。