『ジョジョの奇妙な冒険』の実写化は成功したのか? 評価のポイントを検証

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 『週刊少年ジャンプ』、『ウルトラジャンプ』誌上で、30年にわたり連載が続いている漫画『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズ。少年誌のバトル漫画としては少し異質な雰囲気が人気で、シュールな会話の応酬と、「ドドド…」「メメタア」などの奇妙な擬音、緊迫したサスペンス描写のある作風で知られている。また、海外のファッション誌などを参考にしたと思われる、奇抜な服装や「ジョジョ立ち」と呼ばれるスタイリッシュなポージング、それをアヴァンギャルドなコマ割りと構図で描いているのも特徴だ。

参考:『ジョジョ』小松菜奈が語る、“原作もの映画”への取り組み方「どれだけオリジナルにできるかが肝」

 イギリス、アメリカ、イタリアなど世界各地を舞台にしているジョジョのシリーズのなかで、この度、実写映画化された『第四部』は、原作者・荒木飛呂彦の出身地である宮城県仙台市をモデルにした町「M県S市杜王町」を舞台に、その町の住人たちが登場人物となっており、本作『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』は、シリーズ中、日本映画としては比較的映像化しやすいパートを選んでいるといえよう。それでも、非現実的な戦いを描く本作が、実写化が難しい題材であることに変わりはない。それでは、実際に完成した作品の出来栄えはどうだったのか。ここでは、率直に本作の評価をしていきたい。

 漫画作品の実写化に敏感に反応するのが、まず原作のファンである。漫画やアニメーションは小説などとは異なり、すでにビジュアルや具体的な演出が完成しているため、それらが最低限再現されなければ反発を生むリスクもある。加えて、漫画の実写映画化企画そのものに不信感を持つ層というのも存在する。しかし、そういう意見が出てくるというのも理解できなくはない。話題性や安定的な集客を見込もうと、既存の人気漫画を引っ張り出してくる安易な企画が、これまで映画やドラマ作品のなかで少なくなかったからである。

 本作を手がけた三池崇史監督は『クローズZERO』シリーズを大ヒットさせ、さらに『ヤッターマン』や『忍たま乱太郎』、『殺し屋1』、『テラフォーマーズ』、ゲーム原作の『逆転裁判』など、実写化困難と思える原作の作品を多く撮っている。映画作家としてはリスクが高いと思われるような企画を次々に任されるのは、もともと三池監督がユーモアをともなった荒唐無稽でコミック的な表現に長けており、また「早撮り」でも知られるように、期間、予算など限られたコストのなかで堅実に仕上げられる職人的な手腕を持っているからである。何より、多くの映画監督が尻込みしてしまうような企画であっても「逃げない」というのが大きい。

 本作がとくにこだわっていると思えるのが、見た目の再現へのこだわりである。舞台となる「杜王町」は、原作の奇妙な作画を再現するように、スペイン、カタルーニャ地方の海沿いの町シッチェスに、日本のキャストや小道具を持ち込んで撮影、「無国籍」な雰囲気を作り上げている。以前、三池崇史監督は、『漂流街 THE HAZARD CITY』で、どう見ても海外でロケをしているはずの広大な荒野の映像に「埼玉県」というテロップを表示したように、「海外の風景を日本だと言い張る」手法はすでに確立されている。

 また、キャラクターのヴィジュアルも、やり過ぎといえるほど原作に寄せている。山崎賢人が演じた、主人公の東方仗助(ひがしかた じょうすけ)の前衛的なヤンキー風ヘアスタイルはもちろん、仗助の指導的役割を担う、伊勢谷友介が演じる空条承太郎(くうじょう じょうたろう)が被る、少年漫画伝統のバンカラ志向を受け継ぐ、ボロボロに敗れた学生帽、いわゆる「破帽」と、髪が繋がっている漫画ならではの「画風」ですら、帽子と髪が融合していると解釈し、それを実写で再現してもいる。このような表現をユーモアとして処理してしまえるというのが、三池監督がコミック原作とフィットできる理由である。

 このように本作は、原作へのリスペクトの姿勢を、ビジュアル的な面で見せることによって、「頑張っている」という感想を観客から引き出し、原作ファンからの反発を封じ込めたように感じる。だがその反面、独特な世界観をなぞろうという意識が強いため、映画独自の試みが少なく、大人しい印象を受けることも確かだ。

 吸血鬼との戦いを描く漫画としてスタートした原作『ジョジョの奇妙な冒険』の物語は、主人公が代替わりしていくスタイルをとっており、現在『第八部』まで進んでいる。『第三部』からは、“スタンド”と呼ばれる、幽体のような精神エネルギーを使ったバトル漫画へ移行した。スタンドバトルは、それぞれのスタンドがもともと持っている固有の「能力」を使って、敵の行動を先読みし駆け引きをしながら勝利につなげるというものだ。『第四部』の主人公・東方仗助は、スタンドバトルを繰り返しながら、仲間とともに町の連続殺人事件を解明していく。

 原作漫画におけるスタンドバトルの描写については、私はある不満を覚えている。お互いの能力を発揮しつつ、いかに相手の裏をかいて勝利するか、状況が二転三転する戦いをサスペンスフルに楽しませるというのが趣向になっているが、そのバトルの展開に、いまいち納得できないケースが多いのである。加えて、東方仗助の操るスタンド“クレイジー・ダイヤモンド”が持つ「ものを治す(直す)」能力があまりにも応用が利きすぎるように思える。本作にも登場する「空間をけずり取る能力」によって、ものを手前に引き寄せる描写についても、見た目ではどのくらいけずり取ったのかが理解しづらく、引き寄せる距離が毎回都合よく変化するように感じられる。そうなってくると、「能力」を恣意的にこじつければ、どういう攻撃だって可能になってしまうような印象を与えられるのだ。このご都合的恣意性というのは、『週刊少年ジャンプ』に連載している、同じような能力系バトル漫画『HUNTER×HUNTER』の緻密な設定とロジックの積み上げと比べると際立つように思う。「それが『ジョジョ』なのだ」と言ってしまえばそれまでだが、これは私にはカタルシスを生じにくくするような、明らかな弱点であるように思える。スタンドバトルにおける論理性は、それが読者の「身体性」の実感から離れたものだからこそ、より重要になってくるはずである。

 原作『第四部』のなかで、私がとくに面白いと思ったバトルは、少年と人気漫画家が精神エネルギーを賭けて戦う「ジャンケン勝負」だったり、東方仗助と、変身能力を持った仲間が、金のために「イカサマ勝負」を仕掛けるが、結局は指を賭けることになる、ロアルド・ダール作品のような展開など、あくまで、読者にあらかじめ提示されている範囲のなかで勝負がつくものに限られる。その条件において裏をかいてこそ、カタルシスが生まれるのではないだろうか。

 実写映画版を内容的に成功させ、意義のあるものにするためには、原作に弱点があるならば、それを克服する必要があるはずだ。その意味では、少年漫画特有の「単調なバトルの繰り返し」によって輪郭がぼけてしまった面があると感じる、カーレース漫画『頭文字D』が、原作のファンであるという、香港のアンドリュー・ラウ監督らと、『インファナル・アフェア』シリーズを中心とするスタッフによって大胆に翻案され、一つの映画作品として、より完成度の高い見事な内容に生まれ変わらせた実例もある。それに対して、実写版『ジョジョ』は弱点となる部分すら、そのままトレースしてしまっているように感じられるのだ。

 それでは原作漫画『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズのバトルにおける最大の魅力とは何なのだろうか。それは、戦いの緊迫感をサスペンスやホラー表現と結び付け、さらに「ゴゴゴ…」「ドドド…」など重低音を意味する擬音とともに、緊張が持続する演出の巧みさである。そこには、仰角からだったり、真上からだったり、奇抜な構図によって、静的な場面もドラマチックに表現できる技術が駆使されている。これは、デヴィッド・フィンチャー監督の映画作品の演出にも近く、映像を漫画作品として効果的に再現する手法であるように感じられる。

 そのような面を理解したうえで、これを実写化しようとするならば、その「映画的」特性をさらに映画作品として強調して、奇抜な構図や、サスペンス演出を連発させ、実験的な部分まで踏み込んでこそ、『ジョジョ』の正しい実写化作品になるのではないだろうか。そういった演出上の意味においては、明快な映像を撮ることの多い三池監督の作風とは、ミスマッチな部分もあったように感じられる。

 本作は「第一章」と銘打たれているが、次作が作られることがあるのなら、原作ファンが、原作との差異を確認し「頑張っている」と評価するような内容を超えて、映画ならではの意匠、そして原作同様のケレンをたっぷりと詰め込む必要があると思える。内容の面において、漫画原作の実写映画が何よりも目指すべきは、描写を考え抜くことで、いつまでも記憶に残る優れた映画を作ることである。それは、漫画原作であっても、オリジナル作品であっても。多くの映画作品において共通する目的であるはずだ。(小野寺系)

※山崎賢人の「崎」は「たつさき」が正式表記