取材に応じてくれたトッゾ副会長(写真)は、経理部長に就任した08年頃からクラブの発展に尽力。近年の成功の礎を築いた功労者だ。 写真:沢田啓明

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 2016年11月28日に起きた事件を、覚えている方は多いはずだ。ブラジルの1部リーグに所属するクラブ、シャペコエンセの一行を乗せた飛行機が墜落し、多くの尊い命が犠牲となったあの大事件だ。
 
 あれから、およそ9か月が経った。クラブ存続の危機に直面したシャペコエンセはしかし、着実に復興へと進んでいる。そして8月15日には、コパ・スダメリカーナ王者として臨むスルガ銀行チャンピオンシップで、浦和レッズと対戦する予定だ。
 
 シャペコエンセの来日を記念してお届けするのは、現地在住のサッカージャーナリスト、沢田啓明氏が飛行機事故からの歩みを追ったドキュメンタリー連載。第4回は、クラブとシャペコ市、市民、サポーターの「絆」に迫る。
 
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 あの忌まわしい飛行機墜落事故以来、頻繁にシャペコの街を訪れて、シャペコエンセのクラブ関係者、コーチングスタッフ、選手たちを取材している。その傍らで、サポーターや一般市民とも親密な交流を続けてきた。これらの経験を通じて強く感じることがある。それはクラブとシャペコ市、市民、サポーターが、サッカー王国ブラジルでも他に例を見ないほど強い絆で結ばれている、という事実である。
 
 先に触れておきたいのが、シャペコの街についてだ。ブラジル南部のサンタカタリーナ州の西北部に位置し、人口は東京の荒川区とほぼ同じ21万人。国内で134番目と、その規模はブラジル全国リーグ1部に所属するクラブの本拠地の中では飛び抜けて小さい。そんな地方クラブがトップリーグに定着し、しかも南米のクラブ王者を決するコパ・リベルタドーレスに参戦していること自体、奇跡に近い。
 
 市民は約70%がイタリア系で、残りがドイツ系。黒人、日系人はほとんど見かけない。治安は比較的良く、清潔で豊かな街は南欧の田舎町を思わせる。人々は温厚で親切。歩行者やドライバーの交通マナーはサンパウロやリオデジャネイロとは比較にならないほど良い。老いも若きも男も女も、シャペコエンセの熱烈なサポーターで、試合の有無にかかわらずユニホームを着て街を歩いている。
 
 店の飾りつけもチームに関連するものが多く、街中にクラブ(と市)のシンボルカラーである緑と白が溢れている。要するに、街全体が「シャペコエンセ共和国」と表現できるような趣を漂わせている。
 
 とはいえ、ほんの数年前までクラブを取り巻く状況はまるで違っていた。元々、ブラジル最南端のリオグランデ・ド・スル州からの移住者が多く、かつては市民のほとんどがこの州の2大クラブであるグレミオかインテルナシオナウを応援していた。
 
 地元のアマチュアクラブが合併し、シャペコエンセが創設されたのは1973年。スタジアムは76年に市が建設し、それを無償で借り入れた。翌77年に初めて州リーグを制覇。以後2年連続でコパ・ド・ブラジルに出場するも、78年が参加74チーム中51位、79年が94チーム中93位と、惨憺たる成績だった。
 
 その後も振るわず、年初の数か月だけ州リーグや地方のカップ戦に出場し、それ以外の時期は試合がないため活動休止、という典型的な弱小クラブだった。なかなか結果を残せず、支出が収入を大きく上回って負債が蓄積。監督、選手、職員らへの給料が支払えず、労働訴訟を起こされて多額の罰金を科せられるなど、泥沼にはまっていた。
 
 2005年には倒産の危機に陥り、「一度クラブを潰して(破産して)別のクラブを立ち上げたほうがいい」という考えに傾いた。しかし、一部の役員が「そんなことをしたら市や市民の信頼を永久に失う」と言い張り、私財を投じて少しずつ負債を返済していった(著者・注/こうした行為はブラジル・サッカー界では異例で、負債が重なると役員が資産を売却して懐に入れてからクラブを倒産させるケースが一般的。一方、収入が多いクラブは本来無給のはずの役員がスポンサー収入や選手獲得の際に生じる契約金の一部などを着服する事例が少なくない)。