KKコンビが甲子園を沸かせた夏から32年……

 毎年、夏の甲子園の季節がやってくると彼らのことを思い出す。

 桑田真澄と清原和博。30年以上前に日本中を沸かせたPL学園の“KKコンビ”である。甲子園で通算20勝3敗の桑田、歴代1位の13本塁打をかっ飛ばした清原。1年夏と3年夏に全国優勝。2年春、2年夏も準優勝。3年春はベスト4。2人の天才が同時代に同チームに揃った奇跡。中学時代に続き4番エースを狙っていた清原はPLに入学して、同級生の桑田の投球を見た瞬間に、ピッチャーとしてはこいつには勝てない、そう悟ったという。自分よりも遥かに身体が小さいこの少年はまるで辛さを感じないのかと思わせるほど、毎日黙々と走り続けている。この男に置いていかれるわけにはいかない。清原はライバル桑田に負けじとバットを振り、高校野球史を変えてみせた。そんな出来過ぎた青春ストーリーもあの85年秋のドラフト会議が引き裂くことになる。


甲子園を沸かせた“KKコンビ”桑田真澄と清原和博 ©共同通信社

 6球団の1位入札がありながら希望の巨人からは指名されずに悔し涙を流した清原と、早稲田大学進学を表明しながらも巨人単独1位指名を受けた桑田。「巨人と桑田に裏切られた。埼玉ってどこやねん」と西武ライオンズで逆襲を誓った清原は1年目から高卒新人記録の31本塁打をかっ飛ばし、桑田は2年目に15勝を挙げ19歳で沢村賞に輝く。そして、ともに高卒2年目ながらも両チームの4番打者とエースとして対峙した87年日本シリーズは「打倒・王巨人」を果たす清原の歓喜の涙で幕を閉じるわけだ。

 まさに新時代の球界の主役。その実力はもちろん、ドラマ性も含め、野球ファンにとって「80年代のKKコンビ」は完璧だった。まるでマンガのような『かっとばせ! キヨハラくん』の世界である。プロ野球ニュースでも『清原君のV旅行』というなんだかよく分からないコーナーができるほどの桁違いの人気ぶり。ピチピチのブーメランパンツでマイク片手にビーチを走り回るキヨマーは、みんなが子どもの頃に憧れた等身大のスターそのものだ。

90年代のKKコンビの光と影

 そんな栄光の80年代が過ぎ去り、「90年代のKKコンビ」は浮き沈みが激しかった。バブル景気真っ只中、桑田は暴露本や数々のスキャンダルに見舞われ、金品授受等が発覚し90年開幕から1か月の出場停止。復帰即2試合連続完封とハートの強さを見せつけ、87年から6年連続二桁勝利を記録しながら、エース争いは2年連続20勝という凄まじい成績を挙げた斎藤雅樹の後塵を拝することになる。恩師の故・藤田元司から長嶋茂雄監督へと代わった93年は8勝15敗と極度の不振に陥るも、持ち前の逆境での強さを発揮し翌94年は14勝11敗で、あの中日との同率優勝決定戦10.8決戦で胴上げ投手となり、自身初のMVPを獲得してみせた。

 しかし、95年に右肘靱帯断裂の重傷を負い、アメリカでのトミー・ジョン手術へ…。実はこの頃、野茂英雄に続くメジャー挑戦者は、かねてからその憧れを公言していた桑田ではないかという噂が囁かれていた。実際に野茂がロサンゼルスへ飛び立つ直前、95年1月にはサンフランシスコ・ジャイアンツから巨人に桑田の身分照会がくる。もちろん球団は一蹴するわけだが、元同僚のクロマティは自著の中で背番号18に対し「大リーグで桑田を育ててみたいものだ。きっと大物ピッチャーになる。あの足腰のパワーは並大抵ではない」とその素質を絶賛している。だが、手術後の桑田の筋肉に触れたトレーナーは、以前のはち切れんばかりの筋細胞とはまったく別物の感触に絶句したという。

 対する清原も選手としてのピークは10代後半から20代前半の86年〜92年だったように思う。89年は35本塁打、92打点。プロ5年目の90年は打率.307、37本、94打点、11盗塁、OPS.1.068とチームの日本一に貢献し、オフには史上最年少での1億円プレーヤーへと駆け上がる。92年も36本、96打点で史上最年少の24歳10か月で200号本塁打を達成。王貞治のホームラン記録を超えるのはこの男しかいない。誰もがそう信じたキャリアは93年から下降線を辿ることになる。ホームラン25本前後、打率も2割台中盤と、10代で3割30本をクリアしてみせたスラッガーとしてはあまりに寂しすぎる成績。西武黄金時代をともに築いた恩師の森祇晶監督や先輩たちが続々とチームを離れ、背番号3はまだ20代中盤にもかかわらず燃え尽きたように見えたのも事実だ。95年のプロ野球ニュースで放送された『10年目のKK』インタビューでは「また桑田がチームメイトになる可能性は……まあ……うーん……桑田が西武に来たら可能性はあるんじゃないでしょうか」なんて精一杯の意地を張るが、この直後、もしも清原が巨人ではなく、メジャーリーグを目指していたら、また違った野球人生になっていたのではないだろうか。

清原が桑田の部屋を訪ねた夜

 だが、やっぱり29歳の岸和田出身の青年が死にたいくらいに憧れたのは、海の向こうではなく花の都大東京だった。96年オフ、清原は10年越しの夢を叶え巨人へFA移籍。97年4月6日、桑田の661日ぶりの復帰登板で一塁を守っていたのは背番号5の清原だ。“巨人の清原”は移籍後初アーチを放ち、6回1失点の桑田とともにお立ち台に上がる。今振り返れば、90年代のKKコンビのハイライトはこの試合だったように思う。当時、すでにプロ野球界は新章へと突入していたのだ。KKコンビに代わる新たなる主役、「イチローと松井秀喜」の時代である。


巨人のユニホームを纏った“KKコンビ” ©共同通信社

 清原の自伝『男道』の中で印象深い記述がある。2001年7月18日の甲子園での阪神戦、先発した桑田は自軍のリードを守りきれず滅多打ちを食らいKO。全盛期とは程遠い姿に妙な胸騒ぎを感じた清原は、宿舎に戻ると桑田の部屋を訪ねる。ユニフォームの前をはだけたまま放心状態で自室のベッドに座り込んでいる背番号18。こいつやめる気やな、そう察した同級生は「お前がやめるときは俺が打席に立つ。それでお前の球があかんかったら、俺が言うたる。そんな格好しとらんで、はよ風呂入れ」と声をかけるわけだ。変わりそうで変わらない、ギリギリ野球が繋ぎ止めていた関係性。その後の清原を襲う厳しい現実や両者の距離感を知りつつ読むと、ちょっと泣けてくる。

 30数年前、高校1年の夏の甲子園で、日本中から注目された15歳のふたりは試合前に蝉をとりに行ったという。男にとって、10代中盤から後半の金も経験もない恐ろしく無力な時代を共有した仲間は特別だ。ある意味、綺麗なおネエちゃんとの思い出よりも大事なものだと思う。15歳の頃から日本中の注目を浴び続ける重圧をいつだってワリカンしてきた。清原がひとりなら、もしくは桑田ひとりなら、高校球界のスター選手になっても伝説にはならなかっただろう。KKコンビはふたりでひとつだった。なにもまた一緒に蝉とりに行けなんて言うつもりはない。今なら、蝉とり以外にも彼らがあの頃の関係性に戻れるきっかけがある気がする。それは、野球である。なぜなら、KKコンビを引き合わせたのは「巨人」ではなく、「野球」だったからだ。

 毎年、甲子園の季節がやってくると彼らのことを思い出す。2017年、桑田真澄と清原和博は49歳の夏を迎えている。

 See you baseball freak……

(参考文献)
『男道』(清原和博/幻冬舎)
『Gファイル 長嶋茂雄と黒衣の参謀』(武田頼政/文藝春秋)
『さらばサムライ野球』(ウォーレン・クロマティ/ロバート・ホワイティング共著/松井みどり訳/講談社)

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