鹿島をコーチとして支える柳沢(左)と羽田。クラブの哲学をよく知るふたりが指導者として鹿島に戻ってきた。写真:田中研治

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 鹿島アントラーズのコーチ陣には、必ず日本人が就任している。
「ブラジル人監督と契約する時には、必ず、日本人をコーチとするよう要請します。というか、その条件が飲めない監督とは契約はしない」
 
 長年、強化を担ってきた鈴木満はそう語り、「そうやって日本人指導者を育て、準備してきた」と話す。
 
 2015年シーズン途中に、トニーニョ・セレーゾ監督が解任され、コーチだった石井正忠が監督に就任。リーグ王者、CWC準優勝、天皇杯優勝と結果を残した。しかし今季、ACLでベスト16での敗退が決まると、石井に代わり大岩剛コーチが監督に昇格。リーグ戦8試合で7勝1分けと成績が一気に回復している。そんなトップチームのコーチをふたりのOBが務めている。日本を代表するストライカーとして君臨した柳沢敦と、将来を嘱望されながら負傷に悩まされたセンターバックの羽田憲司だ。
 
「鹿島へ戻ってきて、コーチの仕事を始めて、今年で3シーズン目。監督交代が二度あり、優勝も経験できた。本当に激動の2年半でした。指導者というものがまだまだ分かっていないなかで、チームの良い時と悪い時に接して、自分がどういうことをしなくちゃいけないかを考えた。力不足、未熟さを痛感する出来事がたくさんあります」
 
 そう語る柳沢は、1996年に鹿島でプロデビューし、その後イタリアへ移籍、2006年に鹿島に復帰するが、2008年には京都へ移籍し、2014年に仙台で現役を引退。翌2015年に鹿島のトップチームのコーチに就任したが、当時は石井、大岩に続く3人目のコーチだった。
 
「現役引退して、すぐにトップチームのコーチに就任。いきなり上手くできるなんて思っていなかったから、気負いもなかった。石井さんや(大岩)剛さんのもとで、いろいろと勉強し、学ぼうと。もちろん、見て盗むという感じですけど、見ているだけじゃ仕事はない。やっぱり自分で探さなくちゃいけないから、最初は、何をしようと考えながらウロチョロしているような感じでした」
 
 柳沢から遅れること1年、2016年に古巣へ復帰を果たしたのが羽田だった。2000年に市立船橋高から加入、天性の守備センスとリーダーシップが高く評価され、2001年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)ではキャプテンを務めている。しかし、2001年夏以降、原因不明の足の痛みと戦い、幾度の手術とリハビリを4年以上も行なうこととなる。
 
 2007年にはセレッソ大阪へ移籍。2009年にJ1昇格を果たし、2010年にはリーグ3位でACL出場権を獲得。香川真司をはじめ多くの選手に慕われるキャプテンだった。そして、2012年に神戸で現役を引退すると、翌2013年からセレッソ大阪で指導者としてのキャリアをスタートさせる。
 
「セレッソでは、スクールから始まり、ユース、トップのコーチと短期間ではあったけれど、いろいろな現場で仕事をさせてもらった。様々な勉強をできているという実感があるなかで、鹿島からのオファーを頂いた。どうするべきか、本当に悩みました。鹿島のトップチームのコーチが自分に務まるのかという風にも思ったし、なによりセレッソを離れて良いのかという葛藤もありました。それでも、鹿島からのオファーはこのチャンスを逃せば、二度とないだろうし、いつか鹿島で仕事がしたいという思いもあったので。送り出してくれたセレッソの方々には今でも強く感謝しています」
 
 現役時代に苦労した羽田は、選手の気持ちをより深く理解できる指導者になるだろうという声もあるが、羽田はそれを否定する。
 
「もちろん僕自身、長く負傷に悩まされたから、同じような立場の選手の気持ちを分かる部分もあるのかもしれないけれど、性格も育った環境も違うんだから、同じ気持ちを持てるわけがない。現役時代の経験がコーチをするうえで、良い影響につながればそれは素晴らしいことだけど、そんなシンプルなものでもないと思うんです」