アトレティコ・マドリーを率い、レアル・マドリーやバルセロナに挑んでいるディエゴ・シメオネ【写真:Getty Images】

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受け入れたくない事実

 アトレティコ・マドリーを率い、レアル・マドリー、バルセロナとの3強時代を作り出したディエゴ・シメオネ監督。選手を戦士に変える闘将のチームは、他とは一線を画すほどの勝利への執着心によって異彩を放っている。アトレティコの何が観る者を魅了するのだろうか。シメオネ監督の著書『信念 己に勝ち続けるという挑戦』(カンゼン)の内容から、ロヒ・ブランコの本質的な魅力を読み解く。(文:西部謙司)

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 読み始めてまもなく、うんざりしてきたことに気がついた。

 有名大学に入学して大企業に就職するのが良い人生を送るおそらく最良の方法だ――たとえば、そんなことを繰り返し言われているような気持ちに、だんだんなってきたからである。もちろん、そんなことはひと言も書かれていない。フットボールプレーヤーとして、監督として、シメオネの信念が真摯に綴られているだけだ。

「つまるところ、ボールがあるために私たちの心をつかんで離さないこの球技は、ボールのない競技なのである」

「選手は、システムの一部として機能しなければならない」

「私にとって試合は“戦争”であり、ライバルを“殺す”必要があるという心持ちでいた」

「相手のミスに基礎を置くこの競技では、リスクを最小限に抑えるというのが私の考え」

「自分はどういった勝利を好んでいるのか? 相手より1点多く記録すること、である」

 シメオネは本当のことを語っている。しかし、人によってはそれは不快な真実かもしれない。逆に痛快に思う人もいるだろう。世の中には受け入れたくない真実、ことさらに強調されたくもない事実が存在する。それをつきつけられたとき、ある種の人はうんざりする。

「シメオネのサッカーに共感する部分は1つたりともない」

 アルゼンチンの名将だったセサル・ルイス・メノッティはシメオネのサッカーを全否定している。アルゼンチン代表選手としてシメオネが最初に指導を受けたのは、メノッティとは正反対といわれるカルロス・ビラルドだった。

 シメオネ自身は、メノッティ派とビラルド派の対比などメディアが作り上げたものにすぎないとしていて、メノッティに対して敬意こそあれ何の批判もしていない。自分の信念がメノッティと相容れないとも思っていない。

サッカーをどちら側から見るか。一方通行の批判

「ボールを持つ選手はいつだって自由だ」 と、シメオネは言う。だが、こう続けている。

「そしてライバルにボールが渡ったときに、その自由は失われる」

 強調されるのは「自由」を、つまりボールを取り戻すことに関してだ。

「ボール奪取のために集団として骨身を削る」

「チームがボールを保持していなければ、選手にとっては責任を背負う時間となり、逆にボールを持てば自由な時間となる。すべての時間で自由を手にすることなど、広場でプレーする以外はあり得ない」

 メノッティやヨハン・クライフはボールについて語るが、シメオネやビラルドはボールを持っていない場合について語る。シメオネにとって、ボールがあれば「いつだって自由」なのは自明であり、ことさら話す必要性を感じていないようだ。

 メノッティが守備についてあまり語らないのも同じかもしれない。サッカーをどちら側から見て語るかにすぎず、メノッティ派とビラルド派の対立などメディアの創作物といえば確かにそのとおり。ただ興味深いのは、メノッティやクライフが、シメオネやジョゼ・モウリーニョに対して辛辣な言葉を浴びせかけるのに対して、反対側からの批判はほとんどないことである。

 シメオネは「構築」と「破壊」の組み合わせを語るが、強調されるのは「破壊」のほうでそれへの情熱も隠さない。構築と破壊の両方を引き受けるMFだったシメオネが、あえて破壊に重きを置いているのは現在の彼の立場ゆえだろう。

「ファンについてまず理解しておかなければならないのは、彼らが唯一求めているのは勝利であるということだ。そのほかのことは、すべて嘘っぱちである」

 では、メノッティはどう言っているか。

「豊満かつ芸術的で、崇拝されるものこそが、人々を幸せにできる」

 シメオネは現実を、メノッティは理想を語っているようにみえる。シメオネはその点で現実主義者、勝利至上主義だが、「勝ち負けなど重要ではない」とも言うのだ。

「彼ら(ファン)がピッチに立つチームを自分たちそのものと感じていることは確信している。そうだとすれば、勝ち負けなど重要ではない」

「豊満かつ芸術的」でなくとも、共感得るアトレティコ

 シメオネにも彼のサッカーの理想、イメージがある。それはメノッティや他の誰かとは違っているかもしれないが、確かにあると言う。そのプレーの形について、学校の試験問題だった「好きな動物と、なぜ好きなのか」に喩えている。シメオネの回答は、「犬。だって好きだから」。

 趣味趣向を別にして、監督シメオネは勝利至上主義である。しかし、「成功というものは、少し意気消沈させるものだ」と、意外なことを言っている。エスツディアンテスを率いてアルゼンチンでリーグ優勝したとき、「空虚感を抱いていた」。

「成功へと続く道程は、成功をつかんだという事実よりもずっと楽しい。人間はその道程の中にある状況、出来事、変化から活力を得ていくもので、たどり着いたときにそれは失われる」

 拙著『サッカー右翼 サッカー左翼』で、気鋭の右翼・シメオネ監督をギリシャ神話の「シジフォス」に喩えた。ゼウスの怒りを買い、岩を押し上げ続ける罰を受けたシジフォスは徒労の象徴である。山の頂上まで岩を押し上げても、すぐに反対側の斜面を転がり落ちてしまうからだ。だが、シジフォスは人間の崇高さと美の象徴でもある。

 押し上げている岩は「運命」、その重みに耐えて押し返すシジフォスが「人生」。運命と人生はごっちゃにされがちだが、人にはどうにもならない絶対不敗の王者が運命、ただ1人の挑戦者が人生だ。

 シメオネのアトレティコ・マドリーは、レアル・マドリーとバルセロナという強大な2チームと同じリーグにいる運命に対して、あらんかぎりの抵抗を試みている。過酷な運命に抗うほど生命力は横溢して輝く。

 シジフォス逮捕に向かった死の神タナトスは、シジフォスに騙されて手錠をかけられ誰も死ななくなってしまう。最終的にシジフォスは囚われるわけだが、死を封印したシジフォスのように、シメオネのアトレティコは勝利至上主義でありながら敗北を全く恐れていない。

 巨大な2クラブをときにねじ伏せるアトレティコが、たとえ「豊満かつ芸術的」でないとしても、人々の共感を得るのは自然なことだと思う。

(文:西部謙司)

text by 西部謙司