7月下旬のある晩、中国西南部・重慶の火鍋店で現地の友人と食事をしていたところ突然停電した。

 電気コンロにかけられた鍋は冷え、客が「弁償だ」と叫んで笑いが起きた。内陸部ではいまだに電力不足が深刻なのか。生煮えの野菜をほおばりながらそう考えたが、若い店員は「なぜうちだけ電気が止まるのかしら。だれも修理に来ないし」と首をひねる。

 人為的に引き起こされた事態だった。「お前の国籍は」「いつ重慶に来た」。店が用意したろうそくの光の下、眼光の鋭い男が警察手帳を見せながらパスポートを要求してきた。当局に自宅を取り壊され、賠償を求めて陳情活動を続けている友人は公安の監視対象だ。「不審人物」との会食に不安を感じたのだろう。誰何(すいか)された直後に電気が戻り、われわれの周囲には誰もいなくなっていた。

 「千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以て潰(つい)ゆ」(韓非子)。中国の習近平指導部は多大な社会的コストを費やして、党へのあらゆる批判勢力と異論分子を根絶やしにしようとしている。そこには「蟻(あり)の一穴」が一党独裁を脅かしかねないという病的な恐怖がある。

 7月に死去したノーベル平和賞受賞者、劉暁波氏が起草し投獄の原因となった「08憲章」は中国の民主化を求め、「一党独裁特権の取り消し」を主張しているが暴力革命を呼びかけたわけではない。1審判決を前にしたためた文書の中で「私は独裁的で独占的な執政方法に反対しているが、決して現政権の転覆をあおっているわけではない」と書いている。

 非暴力の民主化運動に徹した劉氏を、清末の知識人、梁啓超と並べ称する声もある。梁は帝政打倒や共和制樹立ではなく君主立憲制の導入を唱えた改革派だった。米国に亡命中の中国人作家、余傑氏は「近代以来の中国において、文章によって時代の精神を変えた最大の功労者」として2人を挙げている。

 また梁啓超と劉暁波氏に共通するのは、まぎれもない愛国者であったという点だろう。習指導部は「中華民族の偉大な復興という中国の夢」をキャッチフレーズとしているが、実は「中華民族」という言葉は20世紀初頭に梁啓超らが使い始めた。清朝領内にいる諸民族を近代国民国家の国民として統合するために生み出した政治的な概念だったのだ。

 08憲章も、世界の大国の中で中国だけが権威主義的な政治を採用していることが「人権面での不断の災害と社会的な危機を生み出し、中華民族の発展を束縛している」と訴えた。憂国の情といえる。

 ただ2人は愛国者ではあっても排外的な思考は持っていない。梁啓超は清末の戊戌(ぼじゅつ)政変から辛亥(しんがい)革命後の1912年まで日本に亡命し、「吉田晋」の名でジャーナリストとして活動した。吉田松陰と高杉晋作を敬愛していたためだ。

 司馬遼太郎は幕末の英雄2人を描いた小説「世に棲(す)む日日」で、革命についてこう書いた。初動期は「詩人的な予言者」が現れ、「偏癖(へんぺき)」の言動をとって追いつめられ非業に死ぬ。中期には「卓抜な行動家」が現れ、奇策縦横の行動をとるが、この危険な事業家たちも多くが死ぬ。そして「処理家」たちが処理可能な形で革命の世をつくり栄達する。予言者が松陰、行動家が高杉というわけだ。

 梁啓超は清朝に命を狙われて亡命し、劉暁波氏は事実上の獄死にいたった。いずれも時代に先んじて改革思想を説いた予言者といえるだろう。ただ今後、中国において「行動家」が現れるのかどうかは誰にもわからない。

 「世に棲む日日」で、松陰を刑死に追いやった幕末の大老、井伊直弼は「とほうもない果断家」と評されている。ただ幕府を絶対的な専制権力として復活させようとしたものの、その方法を検察力のみに頼ったことを司馬は「滑稽」と書いた。「蟻の一穴」を恐れる現在の中国指導部とどこか重なってみえる。(にしみ よしあき)