神野プロジェクト Road to 2020(3)

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 陸上日本選手権の男子1万mが始まろうとしていた。

 大会2連覇を目指す大迫傑ら日本の長距離界の主力級が集合し、スタートラインは独特の緊張感に溢れている。大阪・長居競技場がシーンと静まり、スタートの号砲が響いた。


日本選手権1万mは20位に終わった神野大地

 神野大地は中盤あたりの位置をキープしていた。ペースが遅く、タイム的には厳しくなりそうだ。3000mほどで列が長くなり、神野が早くも先頭グループから遅れはじめる。表情が歪み、ちょっと苦しそうだ。練習での調子は悪くないと聞いていたのだが、体がスムーズに動かないように見える。結局、神野は最後までスピードが上がらず、29分36秒05の20位でフィニッシュした。ミックスゾーンで神野は汗にまみれ、疲れ切った表情で言った。

「29分36秒……うーん、まぁタイムは悪いですけど、前半、遅いペースでラクではなかったですし、まだそれほど走りの練習ができていたわけではないので、今の自分ではこんなもんかなって感じですね」

 優勝した大迫傑のタイムが28分35秒47だ。タイムだけ見ると全体的に物足りないが、しかし、神野の中ではタイムとは違う手応えがあったという。



「蹴り上げを意識していて、それは1万m何とかもちました。マラソンのことを考えると、ここでできないと42.195kmできないので、それができたのはレイヤーなどトレーニングの効果が出ているのだと思います」
 
 神野はすっきりしないレース内容の中にも、確かな光明を見つけることができたせいか、「切り替えて頑張っていきます」と、最後は笑顔を見せた。

6月の日本選手権から数日後、この日は都内の施設・スポーツモチベーションでのトレーニングである。前回でレイヤートレーニングの第1クールが終了した。すでに第2クールが始まっており、今回で9回目だ。左右のウォーキングランジをやって、ABCDEというヤマを制覇するのは前回記したものと同じだ。ただ、トレーニング内容が異なっている。

 Aは右手と右足をステップ台の上に乗せ、後ろに伸ばした左足を引き上げる。これを左右50回ずつこなす。きちんと引き上げることができないと回数はカウントされない。

 Bは両手を頭の後ろに置き、片足をステップ台の上の乗せ、片足での膝の屈伸だ。姿勢を正すと腰への負担が大きく、神野も「これ、腰にくるー」と声を漏らすほど。やや前傾姿勢でもOKだが、キツさはさほど変わらない。これを左右50回ずつ。前回は回数が20回でスローペースだったが、今回は通常ペースで回数が増えて、体にかかる負荷はむしろ増している。

 Cは片足をステップ台の上に乗せ、片足をトレーナーの中野ジェームズ修一に補助してもらった体勢で1分間静止する。つらくなり、手がステップ台につくと時間のカウントを停止。他のトレーニングよりも幾分ラクに見えるが、これが「意外とキツい」と中野は言う。


「これはアイソメトリックトレーニングと言います。動きを止めて、耐えて、筋肉の長さを変えずに張力を発揮するという収縮方法でトレーニングするんですが、結構体への負担が大きいんです。やっていて気が遠くなってしまうこともありますから」

 何度かステップ台に手がつき、カウントが止まる。汗がしたたり落ち、体が小刻みに震えている。

「呼吸を止めない!」

 中野の厳しい声が飛ぶ。呼吸を止めると酸欠になり、血圧が一気に上昇する。そうなると心臓に過度な負担がかかるので必ず呼吸をしなければならないのだ。

「ハァハァ」と息遣いが荒くなるが、トレーニングは続く。アッという間に約75分のトレーニングが終了した。素早く腰、太ももにアイシングを行なう。そのまま20分間、長椅子に座って安静にする。

「日本選手権、動きがバラバラだったね」

 中野が神野にそう語りかけた。

「練習の時の動画のままだと絶対にイケたはずなんだけどなぁ」

 そう言って、不思議そうに少し首を傾げた。

 神野も試合が終わった後、動画を見て、「動きワルッ」と思ったという。

「確かに練習の動画と日本選手権の走りは全然違っていて……。でも、何で動きが悪いのかわからなかったんです」

 神野の疑問に中野が答えた。

「動きが悪くなるのは体を作り変えていく時、陸上選手だけじゃなく、他のスポーツの選手にも起こります。サーブが入らないとか、(勝てる)試合に負けたりとかするんですよ。簡単に言うと道具が変わるのと同じで、神野は今、足を変えている途中なんです。だから、まぁバラバラ感があっても当然かなと思います。今までなかったところに筋肉がついて、それをまだ自分でコントロールすることができていないわけですから」


 中野にとってみれば、神野の走りは想定内ということだったらしい。ただ、動画で見た練習の走りがよかっただけに、もうちょっと走れたのではないかという思いもあった。

「まぁ、いろいろあったしな」

 中野が苦笑した。

 神野は日本選手権の2日前に新幹線で移動し、午後7時過ぎにはホテルに到着する予定だった。しかし、豪雨のために1時間半遅れ、さらに送電線が断線して合計で6時間も車内に閉じ込められたという。

「結局、ホテルに到着したのが夜中の2時過ぎでした。車内販売が全部売り切れで水分も取れないし、夕食も食べられなくて……。3人掛けの椅子で、残りの2席に誰もいなかったので横になって寝ていました。試合当日はだるさとか、眠気とかがなかったのでレースには特に影響しなかったんですけどね」

 神野は、そう言って苦笑した。

 中野の「動きが悪かった」説明を聞き、神野は腑に落ちたという。

「増えた筋肉を”走り”にまだちゃんと使えていない。結局、トレーニングに比べて、走りが遅れているのが原因だとわかりました。もうひとつ、日本選手権ではいつもよりも早く呼吸が苦しくなったんです。それは増えた筋肉に対して、酸素の供給がうまくできていないからで、中野さんからは『レイヤーをしながら、走りのトレーニングも落とさずにやっていけば徐々に改善されていく』と言われました。どちらも走りのトレーニングを継続していくことで解消されるので、これからはケガをしないようにやるだけですね」
 
 日本選手権で現状の課題が見えたわけだが、その後、神野は走りの手応えを改めて感じることができたという。金曜日に日本選手権で1万mを走り終えた後、翌月曜日はジョグ、火曜日は朝練習をしてレイヤートレーニングを終え、水曜日は30km走をこなした。その時、キツいなと思ってもリズムを変えずに30kmを走ることができたという。


「走りがすごくよかったんです。今まで1kmを3分半の設定だと、それより速いタイムでいくことはなかったんですが、この時はすごくいい動きだったので、そのまま流れにまかせて走ったら1時間40分15秒でいけて。トラックでボーンと出すスピードというよりは、継続的に前に進むというかリズムを変えずに進むことができている。レイヤーをやりつつ、40kmでもいい動きでリズムを変えずに走れれば、マラソンもいけると思います」

 ランナーにとって自信となるものは練習量と自分の内にある手応え、そしてタイムである。いずれ自信に変わっていくであろう”手応え”が感じられたということは、今後練習を継続していくうえで、大きなモチベーションになる。

「7月に網走のホクレンロングディスタンスで1万mを走る予定です。そこで28分50秒ぐらいのタイムを出せると、夏合宿につながるのかなと思います」

 28分50秒という設定タイムには神野なりの理由がある。神野が目指すものはマラソンだ。それゆえトラックでのタイムは求めるべきではないと思っているが、1万mを30分のタイムでいいわけではない。1万mを30分でしか走れないとマラソンを1km3分で走ることはできない。ある程度のトラックでのスピード、タイムが必要だが、神野の中でそれは1万mなら28分台があればいいという感覚なのだ。

 果たしてレースは、どうなったのか。


 7月13日、網走は気温36度、湿度62%という信じられない暑さに見舞われていた。陸上競技場近くのコンビニは水やアイスを求める人で混雑し、涼しい北海道でタイムを狙うために来た選手は、まさかの暑さに戸惑いを隠せない。

 神野は1万mB組で、17時15分のスタートだった。夕方で暑さは和らいだが、それでも気温は29度と高く、湿度は71%もある。やはりタイムを狙う選手にとっては厳しい戦いになるだろう。
 
 そんななか、レースが始まった。神野は中盤あたりで冷静に様子を見ている。このレースには青学時代の同期の小椋裕介(ヤクルト)、後輩の一色恭志(GMO アスリーツ)や下田裕太(青学大4年)も参加しており、OBと現役が競う合う展開にもなった。

 最初の400mはムソニ・ムイル(創価大)ら外国人勢が引っ張って走り、65秒台だったが、その後は68秒前後で推移していった。5000mでのトップ通過は14分21秒。神野は先頭集団の後方にポジションを取り、8000mでは12番手だった。ラスト2000mの勝負になったが、神野はここから落ちなかった。
 
 ラスト1周の鐘が鳴り、神野が懸命に走る。地面を蹴って走る姿は力強く、青学時代の軽さを活かした走りではない。最後まで必死に粘って9位、28分56秒34。目標タイムとほぼ同じだ。

「プラン通り、やっと走りが追いついてきた感があります」
 
 神野は汗に濡れた顔に笑みを浮かべた。

「途中、お腹の差し込みがあって、それがなければもっと高いレベルで粘れたのかなって思います。それでもいいレースができましたし、トレーニングに走りがちょっとずつ繋がってきているなと感じました。足に成果が出ています(笑)」

 そう言って少しホッとした表情を見せた。この結果にコニカミノルタの磯松大輔監督も満足そうだった。


「この気温で、しかも体調があまりよくないなか、タイムはもちろん、しっかりと粘れたので中身もよかったと思います。上半期の出来は、故障からの回復を考えれば十分だと思いますね。昨年のパフォーマンスを今年も丸1年続けてというのは難しいので、今は苦しみながらもいろんなレースを経験してくれればいい。これからマラソンに向けてになりますが、神野はまだマラソンを1本も走っていませんし、マラソン練習を経験していない。しっかりと準備ができれば問題ないと思いますが、そこは冷静に見極めていきたいと思います」

 磯松監督の冷静な視線は、初マラソンに向けて前がかりになりがちな選手を俯瞰する意味において非常に重要だ。これからマラソンの本格的な練習に入る神野には、こうした見方ができる指導者の声が何よりも必要になってくる。
 
 6月末のレイヤートレーニングが終わった後、神野は上半期の出来について、こう話していた。

「ここまでフィジカルの部分は満足というか、100%に近いですね。自分のやるべきことがやれたなって思います。走りはうーん、30%ぐらいですね。3月のニュージーランド合宿で軽めのマラソン練習をして帰国後、ハーフを走るということができなかった。ただ、走りについてはこれから上げていくだけなので、それほど心配はしていないです」
 
 中野も「トレーニング自体はうまくやれているし、ここまで順調です。あとは走りの中でどう生かしていくかというところだけですね」と語っていた。

 神野は網走で目標タイムをクリアした。これでまたひとつ自信を積み重ねることができただろう。上半期は故障こそあったが、うまくリカバリーし、フィジカルを改良することに成功しつつある。いろいろなことがうまくいった昨年とは異なるが、それでも今のところ順調に成長しつづけている。

 いよいよ夏合宿、神野は本格的なマラソン練習に入っていく。

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