34歳で「子供がほしい病」に陥り、40歳で不妊治療をやめ、現在45歳となったコラムニストでイラストレーターの吉田潮(よしだ・うしお)さん。

今年2月に掲載して大きな反響のあったコラムをきっかけに新連載がスタート。「産まない人生」を選択することにした吉田さんが、「オンナの欲望」に振り回されっぱなしだったという30代を振り返り、今思うこととは?

女家族、女友達、夫の優しさを再確認し、生きていることを親に感謝する気持ち……などなど、不妊治療で得たものもたくさんあるけれど、実は「失ったもの」もあったと言います。

卵子も精子も老化するよ

2012年、NHKが衝撃的な番組を放った。NHKスペシャル「産みたいのに産めない〜卵子老化の衝撃〜」である。この番組で「35歳から卵子が老化する」と取り上げた途端、女たちは一気にザワつき始めた。

不妊治療をやっている人は、年齢と妊娠率の関係性をイヤというほど熟知している(と思う)。事実とデータを常に叩きつけられながら、満身創痍で何とか頑張っている。でも、自分が妊娠できるかどうか、トライアル&エラーを体験していない女性は、「卵子老化」なんて聞いたら、そりゃビビるわな。焦るわな。

すべての責任を女性に押し付けた形になってしまったのが、この番組の問題点だったのではないか。卵子だけじゃなくて精子も老化するのにね。

日々新鮮な精子を産生しているかのように思われがちだが、精子の数は34歳を分岐点に減少するし、濃度や正常形態精子率は40歳を境に老化するという。

また、夫の年齢と妊娠率は海外でいくつも調査されているが、夫が35歳以上になると妊娠率が低下するというデータも。いろいろと総合すると、やはり精子も35歳くらいから老化するという結論だそう。

ところが、である。芸能人の年の差婚が相次ぎ、60歳以上の男性に子供ができた、などの報道も多い。「あっぱれ、よくやった」と男性の精力を褒め称えるばかりで、精子老化という事実は目立たなくなってしまう。これもレアケースと思ったほうがいい。それでも「男はいつまでも妊娠させることができる、女は妊娠できる期限がある」という形で、全部女が背負いこんでしまっている。

妊娠も出産も子育ても、罪悪感も義務も責任も、女は一生背負わされ続けるのかと思うと、キツイよね。背負わされた荷物、ひとつでも降ろしたいよね。

私はもう降ろした。頑張って背負ってみようと思ったけれど、荷が重すぎて、歩けなかった。なので、早々に降ろしてしまったよ。積極的に不妊治療を受けたのも、たぶん「産めないという科学的根拠」が欲しかったんだと思う。

「まだイケる」という周囲の声が聞こえなくなる頃

子供が授からない夫婦は、心ない周囲(特に遠い親戚や勤務先などの外野)から「お子さんはまだ?」「孫の顔が見たい」といつまで言われ続けるか。冷静に考えると、世間は妻の年齢で見極めているフシがある。20代、30代はとりあえず言われ続ける。40代になっても、まだ言われるだろう。「まだイケる」と。でも45になったら、ようやく口にしなくなる。やっと黙ったかコノヤローと思うと、自分は更年期に入る……ウエルカム地獄。

私は「不妊治療やってダメでした!」と言える。この一言で皆避けてくれる。印籠か。

ハタと気づく。本当に子供が欲しくて不妊治療をやったのか。純粋な動機とは言えないまでも、子供が欲しかったのは事実だ。でも、どこかで言い訳のように利用している自分がいる。結婚していても子供がいないのは、産まなかったからではなく産めなかった、と言いたいだけなのではないか。「産めなかった」ことを印籠のように振りかざす、あるいは免罪符として掲げたかったのだ。たぶん。

もちろん、自らの意志で「産まない」と言う人もいる。このご時世、なかなか言いづらいことだろうなと思う。ジジイの政治家の「女は産む機械」「産まない女に金は出さねー」などの暴言が許されてきた日本で、そして「子供は宝!」と礼賛せざるをえない世の中で、「産まない」と宣言するのは、強い意志と確固たる持論が必要だ。

潔く、断言するほどの知性と覚悟はなかったとしても、基本的には子供をもつ自分に違和感があったはず。子供が苦手で、子供のいる将来を考えたこともなかったのに、なぜか「子供が欲しい病」にかかってしまった。たぶん流行り病みたいなものだったんだ。

不妊治療で失ったもの

女家族、女友達、夫の優しさを再確認し、生きていることを親に感謝し、こうして無事に元がとれるかもしれない単行本も書いている。不妊治療で得たモノは結構多い。では、失ったものは何か。

たぶん、純粋に肉体の快楽である。30代まであれだけ楽しんでいたセックスが、不妊治療を機に、変質した。ちょっとトーンダウンしてしまった。長きにわたって、生殖目的のセックスを頭で考えてしまう生活を送ったために、私は純粋な快楽を失った。

一度鎌首をもたげた理性と、産めなかった悔しさと不全感は、以前のような、我を忘れる感覚をどうしても邪魔する。常に頭のどこかにこびりついている。本当に純粋に快楽を貪る、素直な自分がどうしても戻ってこない。それが寂しい。

つまり、不妊治療のおかげで、性欲と快楽と情熱を失ったのだ。今はたぶんリハビリ中。いつか戻ってくると信じている。信じているのだが、その前にホルモンに翻弄される更年期がやってきそうだ。この大波を乗り切ったら、また楽しめるようになりたい。

そして、もうひとつ。妊娠・出産の難しさを体感してしまったがために、女友達に対してはデリカシーがなくなった。特に「子供が欲しい」という30代後半独身に対しては、「本当に欲しいならできるだけ早いほうがいい!」と煽ってしまう。なんだこの先輩風は。自分だって精神的に深爪状態だったくせに。

でも、結婚は「いつでも・どこでも・誰とでも」できる。でも妊娠・出産はそうはいかない。厳しい現実を叩きつけられた悔しさを、年下の女たちになすりつけていないか? 厳しい現実は私だけに起こったことなのに。これは「不妊マウンティング」かもしれない。ホント、イヤな女だ、私は。

黒い潮、噴き出していいですか?

実は、先輩ヅラして「子供が欲しいなら早いほうがいいよ」なんて話をするのは、「あたしはこうなったから、あんたもこうなるよ!」という呪いである。私は女友達に呪いをかけていたのだ。もう呪いをかけるのはやめたい。酔っぱらうと呪いをかけてしまう癖があるようだ。

私のような、姉御肌風に先輩風吹かすタイプの女が飲み屋にいたら、要注意だ。自分の体験と失敗談を教訓のように話し始めたら、笑顔で対面しながらも全力で逃げてほしい。

不妊治療経験者の話が聞きたい人もいっぱいいるだろうけれど、基本的には聞かないほうがいい。ネットの体験談もしかり。人それぞれの感覚と体験と思い入れがあり、そこにはかなりの隔たりと差があるからだ。

黒い潮が漏れ出てしまったついでに、もう少し心の闇を吐き出そう。一時期、本当にどす黒い潮がいた。日記には呪詛が満タンの時期もある。

知人が妊娠した話を聞くと、心の中にざらっとしたものが生じていた。つとめて客観的にそのざらっとしたものを言語化したいのだけれど、うまく言い表せない。嫉妬なのか、悔しさなのか、諦めた自分への嘲笑や憐みか、憧れなのか。大人のフリして「おめでとう」と言っても、心の底からは祝福していなかった。

そして、友達が流産した話を聞くと、そっと見守りながらも、どこかでホッとした。ごめん、本当に私は鬼畜だ。でも置いていかないで、という気持ちが生まれるのを、自分ではコントロールできなかった。抑えきれなかった。

さらに、携帯の待ち受けにある子供の写真、年賀状の家族写真、イクメン気取りの男、子供のことばかりつぶやく人、子連れで広がって歩く女たち、芸能人の妊娠報道……すべてをねたんで呪いをかける自分がいた。このままでは自分は性根が腐ってしまうと思った。どうにかして発想の転換をしなければ、ニッポン放送の「テレフォン人生相談」に電話をかけてくる、ちょっとヤバイ人になってしまう。加藤諦三先生や今井通子先生に、

「自己中心的な人は得てして被害者の顔をする」

なんて、うまいことまとめられてしまう!

【新刊情報】
吉田潮さんの連載コラム「産むも人生、産まないも人生が、8月25日にKKベストセラーズから書籍『産まないことは「逃げ」ですか?』として刊行されることになりました。
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(吉田潮)