大須交差点を南に進めば一八本店が見つかる。周辺には仏具店が多く、かつては漆器店や金物店も多かった

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たくさんの仏具店がならぶ大須商店街の南側、名古屋市中区橘のあたりは、戦火を免れた古い建物が残る地域。この場所で明治時代からうどん店としてあり続ける店が「一八本店」だ。店名は「いっぱち」と読む。

【写真を見る】八丁味噌を含め、赤白の味噌を2種類ずつブレンドする味噌煮込みうどんは特に人気が高い。写真は「みそ煮込(玉子入)」で820円。天ぷらを追加すると1100円

■ 明治時代から続く老舗の本店

一八本店の歴史は1890(明治23)年から始まる。現店主である上田正隆さんの曽祖父がうどん店を創業し、それを継いだ2代目・上田昇太郎さんの時代に“一八”の名が広く知られるようになった。実はここ以外にも“一八”の名を持つうどん店が周辺地域にあり、それらは一八本店で学んだ弟子たちによる暖簾分けである(店名に“一八”が付いていても、関係ない店もある)。このネットワークは“一八会”と呼ばれ、多い時代には岐阜県や三重県まで拡がって全30数軒に及んだという。ただし、時代の流れで徐々に減り、現在は5軒が残る。

正隆さんも詳しくは知らないそうだが、1937(昭和12)年に開催された「名古屋汎太平洋平和博覧会」(万博のようなもの)に一八本店として出展していたり、1950(昭和25)年には名古屋を訪れた昭和天皇にきしめんを届けたりといった、歴史を感じさせる逸話がいくつかある。

店の3代目は上田家に婿入りした正隆さんの伯父が継ぎ、やがて正隆さんが4代目になったというのが以降のストーリー。正隆さんは伯父・伯母含めて生活していたそうで「血筋は伯父・伯母ですけど、生まれたときから一緒ですから父・母みたいなものです」と懐かしそうに話す。

■ 25歳で店主になった4代目、その変化

正隆さんは、学生時代に店の手伝いを経験し、ほかの飲食店で合計3年ほど修業のような期間を経て、25歳で店主になった。代替わりが若いように感じるが、これを決めたのは昇太郎さんだった。2代目の「正隆に継がせればいい」という指名により、早々に4代目が決定した形となる。店主という肩書は移っても、引き続き手伝ってくれた3代目と一緒に、仲よく店を切り盛りしてきたと正隆さんは述懐する。そうして店主を継いで40年の月日が流れた。

一八本店には、うどん、そば、きしめんといった麺類の定番メニューがそろう。名物メニューと呼べる個性的なものはなく、質実剛健に営業を続けている印象だ。出汁はムロ(ムロアジ)とササ(ソウダカツオ)が中心。赤と白2種類のつゆをメニューによって使い分け、客の指定があれば可能な限りつゆの変更にも応える。麺は手打ちだ。

話していれば笑顔を絶やさず温厚な印象の正隆さんだが、調理場に立つと表情がキリリと引き締まる。一八本店の味に対する客の評価は、多様な「おいしい」という言葉で表現されており、麺、つゆ、付け合わせのいずれもシンプルな仕上がりで、味覚からの純粋な感動がある。だからこそ一八本店が長く続けられている。

125年以上もの歴史を重ねた老舗。さぞや“伝統の味”のようなものがあるに違いないと聞いてみる。しかし「いえいえ、ぜんぜん変わってますよ。私が店に入ったころは、辛くて食べられないなんて人もいたぐらいで」と正隆さん。「変わっていかなきゃ、やっていけませんわね」と明るく笑う。

■ 「やれるところまで頑張ろう、細く長く」

少し前まではカレーうどんをメニューに載せており、評判もなかなかよかったそうだが、今はメニューから消えてしまった。その理由を正隆さんは「手間かけて作っとったもんだで、お客さんを待たせ過ぎちゃって。あんまり苦情がくるもんだから辞めちゃいました」と話す。現在、店は夫婦2人で回しており、客を待たせるのは悪いからと、最近では団体の予約も断っているそうだ。

納得できるものしか出すつもりはない。できる範囲で客に喜んでもらえればいい。正隆さんの飲食業に対する真摯な姿勢が、今ある一八本店の姿勢である。「やれるところまで頑張ろうと思ってます。細く長く、うどんみたいにね」。【東海ウォーカー/加藤山往】