立体型の10段ピラミッド:正面図(左)および側面図(右)(※拙著『教育という病』(光文社、2015)に掲載した図に筆者が加筆)

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学校の「組み体操」の危険性をご存知だろうか。四つんばいになって重なる「ピラミッド」や、肩の上に立つ「タワー」の巨大化が進み、この数年の事故は年間8000件超。脳挫傷での死亡事故も起きていた。2016年からようやく問題視され、教育行政も方針を転換。前年比で大阪市は7割減、名古屋市は9割減と、負傷事故の件数は大幅に減りつつある。

なぜこのような危険が放置されてきたのか。「学校リスク」について研究する名古屋大学大学院の内田良准教授は「自主性という言葉が、歯止めを失わせている。組み体操が巨大化するように、部活動も過熱しすぎている」と指摘する――。

■高さ7m、負荷200kgに達した巨大組み体操

部活動が過熱する仕組みは、この十数年の間に進んだ組み体操の巨大化と重なるところがある。

組み体操とは、複数の子どもたちが身体を組み合わせてさまざまなかたちを表現する運動をいう。厳密には、「2人以上で互いの力を利用し合って動く、動的な運動」を「組体操」とよび、「人間を2段、3段と積み上げて造形美を表現する、静的な運動」を「組立体操」とよぶ(荒木達雄、2016「組体操・組立体操の歴史と教育的価値」『体育科教育』64(5):12-17頁)のだが、ここではマスコミの用法に従い「組み体操」とよぶことにする(文部科学省は「組体操」と表記している)。

運動会の華として知られるこの組み体操が、十数年の間に巨大化・高層化し、2014年に入ってからその危険性がネットやマスコミでたびたびとりあげられるようになった。私は火付け役の一人として、この問題にずっと関わってきた(詳しくは拙著『教育という病』光文社新書、2015)。

中学校では10段ピラミッドが、いくつかの学校で披露された。この場合、中学3年生だと高さは7m、土台の最大負荷は200kgに達する。

それは極端だとしても、高さが4〜5m、負荷が100kgを超えるような組み方は、珍しくない。ピラミッドもタワーも、より巨大で高い組み方がもてはやされ、それが小学校さらには幼稚園にまで拡がっている。

小学校における体育的活動中の負傷事故件数(部活動を除く)を見てみると、組み体操は、跳び箱とバスケットボールに次いで事故が多い。跳び箱やバスケットボールは、全国の学校で複数の学年にまたがって実施されているのに対して、組み体操は6年生に特化されることが多く、また必ずしも全国でおこなわれているわけでもない。事故率としてみると、かなり高くなると推察される。

■組み体操は「運動会の演目」なのか

じつは組み体操は、そもそも学習指導要領に記載がない。戦後すぐの時点では記載があったものの、まもなくして学習指導要領から組み体操の文字は消え去った。さらにいうと運動会における競技種目の選定も、学習指導要領には記載がない。各学校がまったく独自に競技種目を選んでいる。

また、運動会は標準的な授業時数も定められていない。運動会は学習指導要領において、「特別活動」に含まれる。そのなかの「学校行事」に該当し、具体的には「健康安全・体育的行事」に位置づけられている。特別活動の標準授業時数は、小学校では年間35時間(1年生のみ34時間)、中学校では年間35時間と明記されているが、この時数は「学級活動」に充てられるものである。

運動会というのは、本番当日もその練習日も、とくに何時間費やすべきかの指針は示されていない。その結果として、現実には運動会の練習は、体育の授業中におこなわれる。春や秋の運動会シーズン前には、しばしば特別時間割が組まれて体育の授業が多くなる。その分、運動会後には体育以外の授業が増える。

体育の授業では、体育としてやるべきことがあり、その内容は学習指導要領に記載されている。だから、運動会のための体育ではない。目指されるべきは、体育で学習したことが運動会で披露されるという流れである。だが現実には、運動会の練習が先にあって、その練習内容が体育で教えるべきことに関連づけられるかたちで運用されている。

■「次回はもっとよいものを」の声

このように学習指導要領上は、運動会はその内容も時数もとくに規定されることもなく、学校現場の裁量にまかされている。たしかに教科でもない運動会の内容にまで、いちいち国や教育委員会が口を出すべきではないだろう。学校現場が「自主的に」、運動会の内容を考えればよいはずだ。だが、そんなふうにして学校現場の自主性にまかせてきた結果、ここまで巨大でアクロバティックな組み体操が、できあがってしまったことに注目すべきである。

巨大な組み体操を披露すると、保護者や地域住民から盛大な拍手が送られる。子ども(一部を除く)も先生も、大きな満足感を得る。次の年、保護者、地域住民、子ども、先生のいずれにおいても、ハードルは一つあがってしまっている。

学習指導要領上にそのあり方が明記されているわけではないために、何らかの制約がかかることもなく、「次回はもっとよいものを」と高い目標が設定されて、巨大化・高層化が着々と進んでいくのだ。まるで、グレーゾーンに置かれて、「自主性」という名のもとに肥大化してきた部活動とよく似ているではないか。

■「自主性」というマジックワード

運動部活動の研究をリードする中澤篤史氏(早稲田大学)は、その新刊『そろそろ、部活のこれからを話しませんか―未来のための部活講義』(大月書店、2017)において、部活動問題の核心には「自主性」という言葉があると指摘し、「確かに、『自主性』という言葉は魅力的だ。しかし、その反面で、危険な魔力も持ち合わせた、恐ろしいマジックワードでもある」(226頁)と述べる。

その危険な魔力とは、一つが「『自主性』それ自体は良いことなので、『自主性』と言われると、なかなか反対できない」ことであり、もう一つが「実際には強制されているにもかかわらず、『自主性』と言われてごまかされてしまうこと」(227-228頁)だという。

自主性は、大切なものとして尊重される。他方でそれは強制性を覆い隠す役割ももっている。それゆえ部活動は(さらには運動会の組み体操も)、強制性を伴いながらも、自主性という名のもとに肥大化してきたのである。

■「子どもがやりたがっている」で正当化

「自主性」というのは、なるほどマジックワードだ。自主性と言った途端に、その活動は美化され正当化される。

私自身、大学という教育機関に勤める立場として、学生の「自主性」には心奪われる。とくに私が指示したわけでもないのに、みずから本を読み、感想を伝えてくれる学生がたまにいる。これぞ学生の鑑だと、コメントにも熱が入る。

そうは言っても幸いにして私はそこまで教育熱心なタイプではない(悲しいかな、きっとそれが学生にも伝わってしまうのだろう)ので、学生にコメントを返してそこで終わりか、あるいはその後もほどほどのやりとりが続くだけだ。おそらくもっと熱心な大学教員のもとでは、返したコメントによって学生が意欲を高めてさらに自主的に学びを深め、それに教員が再び応じて……と毎回多くの時間を費やす無限のループへと入っていくのだろう。学習者の「自主性」は、教育においてとても魅力的であるがゆえに、歯止めがきかない。

組み体操や部活動においても同様だ。「子どもがやりたがっている」「保護者が欲している」のであれば、それを押しとどめにくい。その陰に隠れた、組み体操の安全性を懸念する声や、長時間の部活動に苦しむ生徒、保護者、そして教師の姿は、「自主性」という語に覆い隠され、見えにくくなってしまうのだ。

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内田 良(うちだ・りょう)
名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授。1976年生まれ。名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程修了。専門は教育社会学。日本教育社会学会理事、日本子ども安全学会理事。ウェブサイト「学校リスク研究所」「部活動リスク研究所」を運営。著書に『ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う』(東洋館出版社)、『教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』(光文社新書)、『柔道事故』(河出書房新社)などがある。Twitterアカウントは、@RyoUchida_RIRIS

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(名古屋大学大学院 准教授 内田 良)