伊藤と山形、最悪の出会い

──伊藤穰一さんとジェフ・ ハウさんの新刊『9プリンシプルズ』<早川書房>の翻訳を山形浩生さんが手がけていますが、おふたりは以前からお付き合いがあるんですよね。確か、伊藤さんは訳者を相談されたときに、すぐに「翻訳者は山形さんがいい」とおっしゃったそうですが。

伊藤穰一(以下、JOI) ぼくたちは、出会いがけっこう面白いんです。といっても記憶が定かではないので、山形さんは違うと言うかもしれないけど。

たしかティモシー・リアリーの『フラッシュバックス』(1995)の翻訳を山形さんが手がけたんです。それでぼくはティモシーの友達で、ティモシーから本の前書きをぼくにやってほしいとお願いされたんです。それで、翻訳が山形さんだったので連絡したの。そうしたら、「お前は何だ、お前は」っていうような、すごい失礼なメールが届いて(笑)。「ぼくはティモシーの友達なんだ」って言ったんだけど「お前のことを日本では誰も知らないからダメだ」って断られたの。それが出会いだったような気がするんだけど。

山形浩生(以下、山形) というか、ティモシー・リアリーがいきなり「伊藤穰一に前書きを書かせる、こいつは非常に重要な奴なんだ」て言ったんですよ。JOIはそのときにCCには入ってたかもしれないけど。あのときティモシー・リアリー、電子メール使えたっけ。

JOI うん、細かいことはよく覚えてないんだけど、なんとなくこう口調が失礼な奴だなって、ティムも言ってて。それで山形さんは、ただの翻訳者ではないんだなということはそこでわかったんです。当時はぼくなんかよりもずっと山形さんは有名だったんです。

そのあと、山形さんがレッシグの本の翻訳することになって、レッシグが東大に客員研究員で来ていたんですね。そうしたらレッシグが「山形浩生ってやつが翻訳していて、ずいぶん変わったやつだけど面白いよ」と話してきたんだけど、ぼくは「いや、あんなやつ、ぼくはきらいだよ、会いたくない」とか言ってた(笑)。でも結局ミーティングかなにかで山形さんとレッシグと3人で会ったんです。そうしたら「ああ、なんか、いやなやつだけど優秀なんだな」とわかって。ぼくが山形さんとちゃんと話をするようになったのは、それからです。

JOI ITO︱伊藤穰一
1966年生まれ。日本のヴェンチャーキャピタリスト、実業家。2011年よりMITメディアラボ所長。Mozilla Foundationボードメンバー、The New York Timesボードメンバーなども務める。最新刊はジェフ・ハフとの共著『9プリンシプルズ』〈早川書房〉。Joi Ito’s Web

山形 まず、ティモシー・リアリーの話があって、その次にぼくが「伊藤穰一」という名前を見たのはペヨトル工房の現代アート誌『ur(ウル)』という雑誌での連載です。そこで伊藤穰一が何を書いたかというと、大学の新しいアカウントを次々にクラッキングするのが趣味で、大学の先生と仲良くなって起業しましたとか、アメリカの金融システムに毎日1回アクセスしないと金融市場が崩壊するような知り合いがいるとか。「ああ、ありがちなクラッカーの自慢がそのまま書いてある。こんなやつ連載させちゃいけねえよ」みたいに思ったの。

それがだんだんインターネットの話がきちんと出てきて、PSINetの話が出てきて。それで「口だけではないようですね」と見直し始めた。当時、流行っていた掲示板で、「ブログが世界を変えるか変えないか」という話をしていたころ、暗号化がらみで伊藤穰一が警察庁の情報セキュリティビジョン策定委員会委員(1997)に入ったんです。掲示板では「その委員会で出てきた規制がダメだ。伊藤は何をやっているんだ」みたいな風潮だった。でもぼくは「伊藤はそこにちゃんと入って、少なくとも活動したじゃないか」という話をしたんです。そしたら「たしかにそうだ。何もしなかった外野の我々に比べて、伊藤はちゃんとやってるよな」と話をしたの。その段階で伊藤穰一に対する評価というのがかなり改善した。たしかに我々よりもコミットしていると認めざるを得ないという認識になった。

あともうひとつ覚えてるのが、小林弘人さんがいたころの『WIRED』のパーティーを渋谷のClub Asiaでやっていたんです。そのときに伊藤穰一がすっと前に出てきて、真っ先に踊り始めたのね。ぼくはそれを見て、えらいなと。最初に踊るのって結構勇気がいることで、「ああ、なるほどね」と思ったんです。そんなことで、って思うかもしれないけど、ぼくはかなり評価が変わった。

社会は変わらなくてもフォースは変わる

山形 訳者のあとがきにもちょっと書いたんだけど、変化の中で生きている一方で、やはり主流経済学の話にいくと、生産性は上がってないし、そんな世の中が変わり続けてるなんて言うのは妄言という考えもあるわけです。ぼくはそんな話を聞くたびに、「いや、いろいろ変わっていて面白い」という話と、一方で「変わっていないな」とその時々で認識が変わるんです。これは伊藤穰一的にはどう思ってるのか聞いてみたいですね。世の中がそんなに変わってるのか、あるいはそもそもあまり関心がないのか。

JOI まず、ぼくは山形さんと違って経済学の勉強をしてないし、あまり経済学者が好きじゃない。でも、いま子どもができてつくづく思うんだけど、例えば子育ては、基本的に経済活動として生産とはみなされていなくて、GDPにも入ってないし、職業としても認められてないですよね。

山形 ベビーシッターを雇えば入るけれどね。

JOI でも、自分が会社に行かないで家で子育てをしたとすると、それは経済的には社会に貢献していないってことになっちゃいますよね。例えば、ですけど。

山形 統計的にはそうですね。

JOI 今後の社会を考えると、みんなが子育てに自分の時間の半分をかけたほうが社会はよくなると思うんです。子どものクリエイティヴィティとか、性格といったものを経済学的に測る方法もあるかもしれないけど、それはこじつけっぽい。例えば音楽を数学で説明しようとしたらできるけど、じゃあ数学で音楽をつくろうとするのが一番適切な手段かというとそうではない。音楽はもう少し違うところからきているんです。いまはキャピタリズムが主要なパラダイムになってるので、経済学者は権力を握って、特に日本はですけど、経済学者のレンズでなんでも見ようとしてるところがあるような気がします。これはバイアスかもしれないけど。

ということで、ぼくは経済学者の言ってることを突っつくことが趣味なんです。ITが来ても全く生産性が上がってないじゃないかと経済学者は言うんだけど、これは経済学者が測るメトリクスで見るとたしかにそうなんです。でも社会が変わってないかというと、明らかに変わってはいる。何かのフォースは増えてると思うんです。

山形 なるほど。

本取材は7月中旬、Skypeで行われた。伊藤穰一はボストン、山形浩生はモンゴルに滞在していた。

JOI そのフォースを経済学的に測れていないから、「生産性が上がってない、お前らダメじゃん」というのと、「経済学者がこの世の中の変化を測れてない、お前らがダメじゃん」という両方の指摘があると思う。『9プリンシプルズ』でもそれは書いていますが、例えばいろいろな分野のインテグレーションや、それをめぐるサイエンスを理解していけばいくほど、それまでわからなかったことが何だったのかが明らかになってくるんです。

だからぼくは、いまは「答えを出す」よりも「質問をする」という段階にあると思っていて、それはつまり、そもそも壊れている人間の倫理観や経済産業で壊れた人間の社会を見直す段階にあるということなんだと思う。その問いを見つけるためのレンズのひとつにサイエンスがある。そもそも世の中は変化している。その変わりつつあるところで、どういう姿勢で向かい合えばいいのかということを示すのが、この本で書きたかったことなんです。

山形 ついこの間、メイカームーヴメントは思ったほど起業をもたらしてないから失敗だ、みたいな議論がどこかに書かれていました。いや、メイカームーヴメントは、そもそもそういうものではないからと思うんですけどね。

JOI そうだね。

山形 たくさん起業をすれば生産性が上がるけれど、それができてないからダメかという話ではないんですよ。

JOI オープンソースとフリーソフトウェアはほとんどそう。ウィキペディアはすごい価値があるけど、経済のバランスシートには載ってない。Linuxの知的財産も、バランスシートには載っていないから経済的な価値はない。つまりいまの経済の価値に組み込まれているかというと、数学的には組み込まれてないわけだよね。だから「メイカームーヴメント」というムーヴメントもそうだし、インターネットは誰のものかという話になる。

ぼくが覚えてるのは、インターネットをNHKの元会長の島桂次さんに、ウェブの前のFTPかなにかをダウンロードして見せたんです。そうしたら「これは誰のネットワークだ?」って訊かれて。「誰がもっているんだ?」っておっしゃるんで、「みんながもってます」って答えると、「じゃあ俺が買えるか?」。「いや、買えません」って。

一同 笑。

JOI ネットワークは、昔は人が売買するものだったわけですよ。だからインターネットも、TVネットワークと同じように、ルパード・マードックや島さんが何千億で売買できるものだと考えられていた。ところが、人がインターネット上で起業はできたとしても、インターネットそのものは言語と同じで、パブリックコモンズなわけです。そのインフラのありようを経済学者はモデリングしてるんだけども、結局そこに乗っかってるヴェンチャーとか企業の収益とバランスシートしか見ていないんだよね。

山形 うんうん、まあそういう意味ではおっしゃる通りだね。本当に世の中が早く変わってるのかというのは、インターネットとか通信の手段の改善であるとか、『9プリンシプルズ』で挙がっているようなDNAのプログラミング化というものでだんだん変わっていくんだろうと思う。それが経済的にどうかというのはさておき。

自己フィルターをはずすと見えてくる

山形 一方で面白いと思うのは、権威で上から命令するのではなく、いろいろなものが自然発生的にエマ―ジェンスしてくるのを待ちましょう、そこから出てくる面白いものを見つけましょう、という話があります。その面白いものをどうやって見つけるのかという問題が常にある。世の中がどんな状況であれ、何かしら創発的に出て来てはいるんだけど、それを拾い上げてどうしていくかというのがみんなできない。『9プリンシプルズ』を読む理由として「伊藤穰一の嗅覚が知りたい」「伊藤穰一の意見がほしい」というのがあると思います。

JOI まず創発的に出てくるものは、「一生懸命見つける」「育てる」という感じではないと思います。ぼくはよくアメリカで講演するときに「ヒラリーが『9プリンシプルズ』を読んでいれば勝てただろうし、きっとトランプは読んだだろう」と話すんです。トランプはわかってる気がするのね。ものすごいエマージェントな波に、彼はただ上手に乗れているだけだと思うんです。トランプを操っていたネットの人たちのなかには、トランプは自分のおもちゃだと思っている人がたくさんいて、どちらがリーダーかわからない状況すらある。

ぼくの場合、「嗅覚」というのは「見つける」というより、コミュニティで流行りまくっているものを、ただつないでるだけ。結局、普通の人は自分の分野の人としか話さなくて、自分の分野の雑誌とかしか見ないんです。まったく世の中を見ていないからびっくりするだけで、こちらとしては、ただ当たり前のことを言っているだけなんです。でも最近わかったのは、当たり前のことを言っても、みんなびっくりするんだね(笑)。

よくネグロポンテも「すごい予言をしてた」と言われていたけど、MITでつくったものを当たり前に紹介してただけだって、MITの先生たちは、そのことをみんな笑うの。『9プリンシプルズ』に出てくるような遺伝子の話は、すべてその業界のなかでは当たり前のことなのね。ただ、マスコミとか一般の人たちのニュースに出てないだけなんです。だから「探しに行く」のではなくて、フィルターを外すだけで見えてくるんですよ。身の回りのことでも同じ。自己フィルターを外せば目の前に見えてくるんだと思うんです。

山形 日本では最近、ジェネラリストはダメでスペシャリストをあらゆる分野で養成しないといけないという話が散々出て来ています。ぼくは自分をジェネラリストだと思ってるのですが、まあそういう話は好きではないのだけど、やはり「スペシャリスト信仰」の欠点はたこつぼ化みたいなもので自分の専門分野にフィルターをかけていくという話に通じます。

JOI これに関していうと、分野ごとに「たこつぼ」があるけど、たこつぼとたこつぼの間は、案外薄っぺらいんだよね。英語で「街灯の下で鍵を探す」という言葉があります。これは電灯の光が当たっている明るいところしかみんな見ていなくて、電灯と電灯の間の暗いところは誰も見てないってことなんだよね。

例えばブログが流行る前、暗号をやっている人が2〜3人しかいないような黎明期に、そのことについて聞きにいくと、彼らは一所懸命に教えてくれるんですよ。だから半年くらい勉強すれば世界一になれる。そういう分野って実はたくさんあるんです。でも研究者の多い経済学や、いまのコンピューターサイエンスの分野で世界一になろうと思ったら、10,000時間どころか一生かかる。でも、誰もやっていない分野でなら半年で1番になれる。では、そこで1番になったから浅いかというと、そうではない。いろいろな分野をつなぐとき、その間の分野の専門家がいないとつながらないことがたくさんあるんです。

ジェネラリストというのはよく検索し、ジェネラリストとしてどこに穴があるかを探します。けれども、穴を見つけたらスペシャリストのようなハイパーフォーカスで世界一にならなくてはいけない。世界一になったところで、そこに旗を立ててみんなに見つかるようにしなくてはいけない。

ジョージ・チャーチルが「競争相手がいるってことは、君がやってる分野はつまらないってことだ」と言っていて、ぼくはその言葉が大好きなの。つまり彼は競争相手がいないところを探して掘るわけ。たぶんそこが日本人が弱いところです。意味がないから人がいないと思っていて、人が並んでいるところに並ぶという感じなのかもしれない。検索の能力がないから大学やマスコミが流行らせているところを、みんなで一斉に並んで掘っているのがいまの日本のスペシャリズム。ジェネラリストは自分に自信をもって掘るところを探す。それで掘ってみたら案外すぐに世界一になれてしまう。ジェネラリストだけで済まそうとすると、それはよくある評論家で終わってしまうと思うからまずいとは思うけど。

山形 なるほど。

JOI 山形さんもジェネラリストかもしれないけど、何かにハマったら、世界一になるくらいハマるでしょう?

山形 ハマるけど世界一まではいかないかな。世界一になる前に、気づくとそこに人が集まってきちゃって、「山形みたいな素人が何を言ってやがる」みたいに言われて追い出される(笑)。で、仕方ないから次を探しに行くって感じなんだよね。

JOI でも一瞬は世界一じゃない?

山形 一瞬はそうかもしれない。

JOI ぼくはそれでいいと思うんだよね。だって旗を立てる勇気のある人が日本にはいないもの。MITメディアラボの定義は、「基本的にみんながやっていることはやりたくない」ということなの。誰かがやり始めたらもうやらない。山形さんは追い出されたっていうけど、「ロクでもない連中がやって来たから、自分から出ていった」という言い方もできるでしょ?

山形 たしかに。そういう言い方もある(笑)。

JOI 最後に『9プリンシプルズ』のことを言っておくと、これは別にオフレコってわけではないんだけど、書き始めたのが実は5年前なんです。そのころぼくはMITメディアラボに来たばかりで、書き出したときはサイエンスにはそんなにハマっていなかったんです。

だからいま本を書けと言われたら、どうやったら環境問題を文化や音楽やアートで変えられるか、というテーマが面白いと思っています。「人類とはそもそも」というような根本的な倫理や哲学、アイデンティティにかかわることですね。ハラリの『サピエンス全史』のリファレンスをもう少しちゃんとしたような、サイエンスにしっかり言及した本をどこかのタイミングで書きたいって気持ちです。

山形
 なるほど。 『角川インターネット講座』で書かれたのもそこを目指してはいましたね。

JOI オリンピックを考えると、「IoTと自動運転。日本の経済はまだ大丈夫」というメッセージになる可能性があります。ぼくは2020年に日本のIoTとか人工知能の話をメーンにしないほうがいいと思います。

いまの環境破壊を引き起こしているキャピタリズムと、欲と、ものが増えればいいという産業革命後の哲学から、もっと神道やアイヌといった自然と一体になるような、必要以上なものはいらないという美しい昔の日本の美学を打ち出すほうがいい。日本は地球とこれだけフレンドリーにつながっているんだ、と。

いままでの環境保護団体というのは、人間を排除し、人間を入れなくするのが環境保護だと言っていたんだけど、うまくいっている原住民を見ると、人間がいるからこそうまくいくという考えに変わっている。例えば、アフリカのマサイ族は、昔は大人になるとライオンを殺していたんだけど、いまは「ライオンを保護するのが我々の使命だ」と、原住民の伝統をいまの時代にあわせて進化させているんです。

そういうテーマを日本でもやろうと。いま日本のなかではあまり表には出ていないかもしれないけど、センシビリティが残っているものもあるのではないかと思います。そこをフィーチャーしたらいいと思っているんです。

山形 まあ、オリンピックがちゃんと開催できるか、わからないけどね。競技場とか環状道路とかできるのか、なんて。

JOI ははは(笑)。いま日本ってそんなに大変なの? ぼくは外からしか見ていないから。もしかしてそれどころじゃない? でもぼくがいま書きたいのはそういう話なんです。

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