「こうなる運命だった」「運命を変えたい」などの思考に縛られ、がんじがらめになってしまうことは人間なら誰しも経験があるはず。薬剤師がつくる専門家集団 「Fizz」代表でもある小原一将さんの無料メルマガ『人間をとことん考える(人間論)』では、この「運命」について小原さん自身の捉え方、考え方を紹介しています。あなたは「運命」というものについて、どう考えていますか?

「運命」について考える

私は自分のことを、論理的な人間であり非科学的なものにあまりこだわりはないが、感情的になることが多く、科学で証明できないものに得体の知れない恐怖を感じる、と思っている。つまり、こうであると思っている自分と実際に行動している自分には狭くない隔たりがある。

非科学的なことにあまり興味関心を示さないと思っておきながら、このメルマガで取り上げるような哲学的なものや心理的なものにはとても興味をもっている。最近、脳や体のことに興味を持っているという人に出会えたので、科学的と非科学的の双方向で意見交換をしても面白いなと思っている。

私としては意味のある人と知り会えたと思ったのだが、こういった出会いを「運命」とするかどうかは意見が分かれるだろう。今回は非科学的だと思っている「運命」について少し考察してみたい。

個人的な意見として、「運命」というものは目の前の事象に対するカテゴリー分けの問題であると思っており、それに対して必要以上の装飾はしないようにしている。要するにその起きた出来事を「運命」と呼ぶかどうかは当事者によると考えている。

運命的な出会いで知り合って恋愛関係になったと言う人もいるだろう。もちろんそれはそれで当事者がそう思って幸せであれば良い。そういうカップルにいちいち持論を展開したりはしない。場を壊さない程度にあいづちをうってその場をやりすごすと思う。

私はなるべく物事を主観ではなく客観的に見なければならないと日々思っているので、多分に主観的であろう「運命」というラベリングはなるべくしないようにしている。上述したような人はある意味、「運命」という言葉で片づけてしまい思考を停止させてしまっているようにも感じる。

なんと面白くない人間だろうかと思われてしまうかもしれないが、冒頭にも書いたようにどちらかと言えば感情的に物事を見たくなり、すごく遠いものまで結びつけて「運命的なもの」にしてしまいそうなので目の前のことにはなるべく冷静にアプローチしようと思っている結果かもしれない。

また、「運命」というとこうなる運命だったとか運命を変えたいなどのように定められた出来事のように聞こえる。このような不可避で変えられないような雰囲気も「運命」を好意的に捉えていない要因であると言える。

こうであると言われてしまうと反例を探したり、もう無理だとなると意地でも頑張ってみたりと昔から大勢に抗いたい性分なのだ。こうなることは運命だったと言われると、予測して避けることができた可能性を探ってしまう。

「運命」という言葉は耳触りが良い。それは人が立ち入れない領域からもたらされたものでそれを受け入れてしまえばその流れに身を任せれば良いと感じてしまうからではないだろうか。

もちろん例にあげたような運命的な出会いを完全に否定しているわけではない。ただ、その出会いは自身で勝ち取ったものであり、その出会いをさらに発展させられるかどうかは今後の努力による。つまりその出会いを「運命」と表すのではなく、これまでもこれからも自分が主役の主体的なストーリーを作っていく必要があると考えている。

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出典元:まぐまぐニュース!