2007(平成19)年8月1日に作詞家の阿久悠が70歳で亡くなってから、きょうで10年が経った。阿久は1937(昭和12)年、兵庫県の淡路島生まれ。本名は深田公之。広告代理店に勤務しながら放送作家の仕事を始めた64年、「阿久悠」のペンネームを名乗るようになる。初めて作詞したのは、テレビ番組用に田辺昭知とザ・スパイダースに提供した「モンキー・ダンス」(65年)。70年代に入ると、尾崎紀世彦「また逢う日まで」(71年)、都はるみ「北の宿から」(75年)、沢田研二「勝手にしやがれ」(77年)、ピンク・レディー「UFO」(77年)など多くの大ヒット曲を生む。『スポーツニッポン』で「甲子園の詩」の連載を開始し、小説『瀬戸内少年野球団』を発表した79年前後より、活動の幅をさらに広げていった。



作詞活動30年の業績により、1997年には第45回菊池賞を受賞 ©文藝春秋

 2001年、腎臓にがんが見つかり、06年からは人工透析を受けるようになる。人工透析に割かれる日がしだいに増えるなか、阿久は時間を惜しむように創作に励んだ。06年6月8日の日記には「最近、作詞が面白くなっている。渚ようことあさみちゆきで平成歌謡曲成るかもしれない」と書いている。

 阿久は1981年の元日以来、毎日欠かさず日記をつけていた。その内容は身辺雑記や仕事のメモにとどまらず、その日のニュース、本や雑誌から得た情報、箴言にいたるまで多岐におよんだ。彼はこれらを1ページに収まるように、毎日深夜、その日に書いたメモのなかから取捨選択していたという。そこから創作のヒントが見つかることもあった。だが、それも2007年7月15日付の次の記述をもって最後となる。

「台風急接近してくる。さて、どのくらいの荒れか。/異様な感じもする。病院ぐらし長びく。/九州一円が台風圏に入っている。この分なら四国の水ガメも大丈夫だろう。/石川遼に先(ママ)のぼること数年の天才ゴルファーは伊藤涼太であった。/消えた年金 記録訂正15件認定。第三者委員会 初の判断。/マイケル・ムーア監督最新作「シッコ」。米医療事情を明かにしたドキュメンタリー」(三田完『不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む』文藝春秋)

 闘病生活のなかでも、阿久が社会への関心を失わなかったことがうかがえる。亡くなったのは、日記が途絶えて半月後のことであった。


2007年1月に行われた作家・黒鉄ヒロシとの対談より ©文藝春秋

(近藤 正高)