結婚よりも大切なのは、ふたりで子どもを育てるための協定

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著:Laurie Shrage(フロリダ国際大学 Professor of Philosophy)

 私がアメリカの大学院に通っていた1980年代の初め、所属する女性支援団体のメンバーのひとりが妊娠を告げた。独身で結婚の予定もなかった彼女は、この子を産んでひとりで育てるつもりだと言った。彼女は遺伝子上の父親には話さないと決めていた。中絶を強いられたり、別れてからふたたび現れて子どもの生活に立ち入られたりするのを恐れたからだ。ひとりで子どもを育てる方が彼女には都合がよかったのだ。

 私の母も似たような境遇にいた。父と結婚していたときでさえも。当時のアメリカでは、父親は育児に関わらないのが普通だった。基本的な育児はすべて妻に任せるということ以外、今日「伝統的な結婚」と言われるものは共同育児のための原則を明確にしていなかった。父親にお呼びがかかるのは母親に加勢するときくらいかもしれないが、私のパートナーは決してその役割に甘んじることはなかったので、私は幸運だったのだろう。両親が離婚した際、どちらが子どもたちを引き取るかについては疑う余地がなかった。妻である母だ。両親の離婚後、父の存在感はますます希薄になり、私の子どもたちに会うことは一度もなかった(父が死んだとき長子は12歳だった)。

 自らの意志で片親になる。結婚して子供を育ててから離婚する。――このような状況は、婚姻制度は往々にして複雑で変化の多い子育ての支援にはならないという事実を示している。現代の家族は変化しており、最初から結婚せずに子どもを持つ選択をする人々が増えている。1970年にはアメリカにおける全新生児の11パーセントだった婚外子が、2014年には約40パーセントにまで達した。ノルウェー、スウェーデン、フランス、メキシコ、アイスランドなどの国では、50パーセント以上の子どもたちが婚外子として生まれている。

 家族の安泰には結婚が必要不可欠だと考える向きは、この傾向を憂慮する。しかし、親になる事情は人それぞれで、それが結婚に結び付くとは限らない。親と子どもの生活に一定の経済的精神的安定を付加できる、結婚に代わる手段はあるのだろうか。

 答えは「イエス」だ。一般的な婚姻契約と同様に、子どもに関する親の権利と義務を明記したうえに両親が関わり合って決定する原則を定めた、公的な「共同育児協定」とそれに関連する民法上の身分が私たちには必要なのだ。

 子どもたちが成長する過程で複数の大人から継続的な支援を受けることは大きな利益となるが、必ずしも結婚している人々から養育される必要はない。両親に求められるのは、効率的に協力すること、相手と子どもの関係を尊重すること、育児と家計に同じように貢献することだけだ。イギリスでは既に、未婚、離婚、再婚、義理の如何を問わず、両親が子どもの共同親権に関する条件を定めることを目的とした「親の責任に関する協定(parental responsibility agreement)」を締結することができる。この協定には、子どもが基本的に健康な状態であることを共同育児者に定期的に報告すること、また、住居、学校教育、医療、その他費用の提供を援助することの義務が含まれる。

 しかし、結婚したり一緒に暮らしたりする気がまったくない親や親密な関係を持ちたくない親のことを考慮して、もう一歩踏み込んだ公的な共同育児を考える必要があると私は考える。アメリカでは、「結婚せずに」家族を作りたい独身成人が最適な共同育児者を探すサポートをする、ファミリー・バイ・デザイン(Family By Design)やモダミリー(Modamily)などの組織が登場していると、ニューヨーク・タイムズ紙の記事が伝えている。しかし、国が法的に認めなければ、共同育児者は独自の協定を作成せざるを得ない。そのような個人で取り決めた協定は、立場の弱い側を守れない可能性があるし、法律相談の内容に影響されたものかもしれない。

 当然、結婚と同様に、公的かつ正式な共同育児協定の締結と継続は自由意思によるものではければならないし、両親が望むときに、いつでも自由に私的で非公式な協定を締結できなければならない。しかし、制度化された公的なオプションがなければ、とりわけ関係が破綻したときに、家族を悪夢のような確執の危機にさらしてしまう。

 親になるとき、自分の利益が妨げられたり損なわれたりしかねないあらゆる状況を予測することはできない。とりわけ破局した親たちは、フェアでないと知りながら、相手を激怒させるであろう戦略をしばしば用いる。子どもとの接触や子どもの生活への参加が危うくなるとき、片方の親に対する道徳的な配慮は最優先事項ではなくなるのだ。良識ある人々でさえも。私の友人やその友人の中には、パートナーにアメリカ国籍がないことを子どもと接触するための交渉の切り札として使う親たちがいた。ほかにも、同性の共同親が親としての法的地位を得ていない状況を利用する人もいた。また、協定を実行できなくするために、片方の親から遠く離れた場所へ住まいを移す選択をした人もいた。似たような話はたくさんある。

 結婚は概して共同育児の条件を保証していないので、「従来の」家族にとっても従来とは異なる家族にとっても、公的な共同育児協定は社会保険となる。正式な協定は、子どもの生活に関与する権利や両方の親がしかるべき育児支援を行う権利など、親たちの基本的権利の保護に役立つだろう。共同親の協力関係が破綻した場合にも、協定があれば裁判官や親の共同責任に関する新しい協定交渉の仲介者の指針となる。

 親としての地位を正式なものにする過程で、人々は自分が期待することについて最初から熟考し伝え合うだろう。どちらが子どもと家に留まり仕事を犠牲にするか、両親が別々に生活するなら子どもの時間をどう配分するか、子どもの将来に影響する重大な決断をどのように下すかについて検討し話し合うよう親になる人々に奨励することは、間違いなく社会にとって合理的だ。

 もちろん、子どもをもうけるという重大なイベントを前にして、この先どんなことがあるか正確に知るのは困難だし、協定もすべてを事細かに取り決める必要はない。重要なのは、人生において共同育児関係を最優先するという正式な誓約と公式な宣言の文脈において将来の決定が行われるということだ。そのような協定は、協定の解除がもたらす結果が親たちにとって明白であることも手伝って、親たちが互いの利益のために問題を解決しようとする動機づけになるだろう。

 親としての権利や子どもとの関係は、恋愛の浮き沈みに左右されてはならない。友人同士として、あるいは協力し合う者同士として共同で子どもを育てることは、子どもたち、大人たち、そして社会のためになる。民間の共同育児制度があったなら、私の母も大学院時代の友人もひとりで子育てをしなくてもよかったのかもしれない。

This article was originally published on AEON. Read the original article.
Translated by Naoko Nozawa