アイルランドの育成を変える「リトリート・ライン」

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モダンな選手へと導くユニークなルール作り

 
文 結城康平

 
 まるでキャプテン翼に登場するゴールデンコンビ、大空翼と岬太郎のように、昨年夏のEURO2016でセンセーションを巻き起こしたアイルランドには、幼少期から互いを知る親友がいた。ロビー・ブレイディとジェフ・ヘンドリック。2人は常に年代別代表で同じピッチに立ってきた。今回は、前衛的な育成改革によって「黄金世代」を生み出しつつあるアイルランドの方法論――彼ら2人を幼少期から磨き上げた名門アカデミー「セントケビン・ボーイズ」にその根幹がある――に迫ってみたい。

アイルランド新世代の親友コンビ

 
 開催国フランスを追い詰めたアイルランドの中核は、同学年のブレイディとヘンドリックだった。ともに1992年1月生まれの2人は幼少期からのチームメイトで、親友としても知られている。

 「7歳か8歳の時から、ジェフとは一緒のチームでプレーしてきた」とブレイディが過去を懐かしめば、ヘンドリックは「遠征に行くといつもロビーが同じ部屋だったよ。1人部屋になった今でも勝手に入って来て、部屋の歯磨き粉や備品を持っていく」と笑う。

 1学年上のジェームズ・マッカーシーとともに「アイルランドの新世代」として比較的ベテランの多いチームを牽引する彼らだが、グラスゴー出身のマッカーシーはスコットランドのアカデミー育ち。純国産なのは、キック精度と積極的な仕掛けが持ち味の左サイドMFブレイディと、バランス感覚に優れた左セントラルMFのヘンドリックだ。

 フランス戦のPKを含めて2ゴールを記録したブレイディはもちろん、イングランド2部ダービー・カウンティで力を蓄えてきたヘンドリックも特筆すべき戦術的柔軟性を発揮する。サイドMFでも起用された彼は周りの味方を攻守両面において的確にサポートし、利他的なプレーで組織を支えた。EUROでの活躍でヨーロッパの強豪クラブが関心を示し、大会後に1部のバーンリーにステップアップしている。欧州中のスカウトを虜にした2人は、アイルランド国内のクラブ出身だ。そのアカデミーの名はセントケビン・ボーイズ。「進化を止めないアカデミー」と称賛を浴びる名門は、アイルランド全体の育成にも強い影響を与えている。

今年1月からはともに同じバーンリーでプレーする2人、左がヘンドリックで右がブレイディ。その活躍によってセントケビン・ボーイズの名を高めている

バルセロナと互角の名門アカデミー

 
 2016年に開催されたU-13の大会であるアカデミーカップで、アイルランドの名門は世界最高の育成組織を持つクラブと互角に渡り合った。GSで主力を休ませたバルセロナを1-0で破ると、決勝で彼らと再戦。相手が満を持して主力を動員した一戦は3-3という乱戦の末、PK戦で振り切られた。

https://youtu.be/j3L0FJia7_w

セントケビン・ボーイズがバルセロナを追い詰めた2016年アカデミーカップ決勝のハイライト動画

 
 ビッグクラブの注目を浴びる怪物チャビ・シモンズを擁するバルセロナを追い詰めた彼らは、計り知れないポテンシャルを欧州中に示した。マンチェスター・シティが保有する期待の若手MFジャック・バーンズも、このアカデミーの出身者として知られる。プレミアリーグのウェストブロミッチと提携を結んでいることもあり、多くの選手たちは名門アカデミーを経てプレミアリーグを目指す。バルセロナを追い詰めたのは、決して偶然ではない。彼らの強さの秘密はユニークな育成システムにある。

 名門アカデミーの責任者としてアイルランドの原石たちを鍛え上げる男こそ、アラン・カフリーだ。世界的には無名な男が磨き上げた育成組織は、今やバルセロナを追い詰めるほどに研ぎ澄まされた刃となった。スペインの方法論を好んで取り入れる国際派のカフリーは、常に他国から学ぶ姿勢を持っている。しかし、より特筆すべきは「バルセロナのスタイル」だけにこだわらない柔軟性だろう。モデルケースから的確に必要となる要素だけを得ようとする。

 「バルセロナのようにプレーしろ、と選手たちに言っても意味はない。スペイン人の指導者が、どのように選手たちを指導しているのか、その中身を学ぶことに意味がある」

 セントケビン・ボーイズの指導者はトップクラスのチームから学ぶことを奨励されており、その多くがバルセロナの講習会にも参加する。提携しているウェストブロミッチでも貴重な経験を積むことが可能だ。

 常に他国から学ぶことを重視するカフリーの理論は、非常に現代的だ。「アイルランドの選手たちがもともと評価されている献身性を失わず、選手に『フットボールを理解させる』ことが理想」と語る彼は、育成年代の試合を狭いコートで行うことを好む。スペースの狭いコートで4対4や5対5、6対6など、年代ごとに参加人数を変えた試合を行うことを浸透させていくことが11対11でプレーするフットボールの理解に繋がると考えており、育成年代ではボールを繋ぐことを何よりも重視する。

 「7歳から10歳までは、勝ち負けにこだわらずに後ろから繋いでいくサッカーをしていかなければならない。そうすれば11歳になった時に現代的なサッカーに対応できる。指導者は、勝敗にこだわらずに選手たちを指導していく必要がある」

協会主導のユニークな新ルール

 
 2015年8月、アイルランドサッカー協会は新たな選手育成計画を発表した。育成改革のために作成されたこの枠組みには、勝利にこだわり過ぎないように「6歳から9歳までの試合では審判を導入しない」という決まりや、選手のプレー時間を保証するために「チームに人数制限を設ける」などといった大胆なルールが盛り込まれている。

 その中でも指導者を驚かせたのは「リトリート・ライン」の導入だ。イングランドサッカー協会やアメリカの一部地方でも若手育成に使われている手法ではあるが、あくまでも1つのアイディアに過ぎない。一方で、アイルランドサッカー協会はリトリート・ラインの重要性を強調し、国全体としての導入に踏み切った。サッカー協会の公開資料の中でも大きく扱われているように、育成計画の中核を担う概念だ。リトリート・ラインとは「選手は相手のゴールキック時と相手GKがボールを保持した時、リトリート・ラインの後ろまで戻らなければならない」というルールのことである。ピッチを横に3分割する直線を2本引き、それが両チームにとってのリトリート・ラインとなる。

 これによって、守備側がGKの近くにいる攻撃側の選手にプレッシャーを与えることが難しくなる。守備側は「GKからのパスやスローに攻撃側の選手が触るまで」リトリート・ラインを越えることができない。そうなると、攻撃側は後ろからボールを繋ぐことに自然と慣れていく。これによって4対4の練習が、「狭いコートでの密着マークに苦しみ、互いにボールを繋げない練習」になることを避けられる。現代的なGKが後方からのビルドアップに参加することは広く知られているが、このルール下ではGKが足を使う機会も増える。狭いピッチと少ない人数はボールを扱う技術も要求される。

リトリート・ラインとは、GKからのボールに攻撃側が触るまで、守備側はピッチを横に3分割したライン(=リトリート・ライン)を越えられないルール

 
 興味深いのはリトリート・ラインを有効活用するために、9歳までは失点時もキックオフではなくGKのマイボールから試合が再開される点だ。また、6歳から8歳まではゴールラインからリスタートする時、必ずリトリート・ラインとGKの間でボールを受けなければならない。

 「年代が進むにつれて、実際の試合に近づいていく」ように段階的なルールが考えられており、9歳から10歳までの時期は「リトリート・ラインより前に1人だけ敵が残る」ことが許される。それによって、後ろでボールを受けた時に今までよりもプレッシャーを受けやすくなるのだ。同時にGKからのロングパスが解禁され、徐々に通常の試合に近づいていく。それでも奨励されるのは後ろから組み立てるプレーであり、数的有利を作って相手のプレッシャーを外すパスワークだ。

 「狭いピッチと少ない人数でのゲーム」「後ろからボールを繋ぐアプローチ」「勝利にこだわり過ぎないこと」。セントケビン・ボーイズの育成論が、アイルランドサッカー協会に大きな影響を与えていることがわかるだろう。

 
 基本的にプロの試合でも、自陣深い位置でのパス回しで「敵の方が味方よりも多い」状況は起こりにくい。だからこそ、GKを含めた守備陣が的確にボールを繋ぐことが「最も安全な」攻撃手段になり得るのである。相手が自分たちよりも優れた選手をそろえていても、それは変わらない。スワンジーやウィガンは戦力的に劣る状況でも、後方からの組み立てを磨くことの価値を証明してきた。EURO2016におけるウェールズやドイツも、後方での数的有利が生まれやすい3バックを生かして組み立てるアプローチを的確に使い、躍進に繋げた。

 名将マーティン・オニールが「アイルランドの若手を照らす希望の光になる」と表現した2人の活躍を夢見ながら、同国の子どもたちは今日もボールを蹴るだろう。リトリート・ラインという実験的な試みは、「バルセロナを追い詰めた少年たち」を「黄金世代」へと変えられるのだろうか。