台湾独立派の長老と呼ばれるグー・クワンミン氏

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 日台裏面史を辿ったSAPIOの連載「タイワニーズ 故郷喪失者の物語」。戦後の動乱期に台湾から日本にやってきた故郷喪失者たちは、祖国の独立を強く願った。見果てぬ夢ともいえる台湾独立運動だが、半世紀の時を経た今、奇跡を起こしつつある。ジャーナリストの野嶋剛氏が報告する。

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 3年ほど前、ヒマワリ運動の取材で台湾にいた。学生が占拠した立法院の外壁に、同じ学生の仲間たちが黄色い小さな付箋に思い思いのひとことを書き込んで、ペタペタと貼り付けてあった。

 数え切れない付箋の8割ぐらいに「台湾要独立!」「台湾独立万歳!」などと台湾独立に言及していたことに、私は少なからぬショックを受けた。

 若い人に台湾独立の思想が広がっていたことではない。その言葉が、なんの遠慮もなく、無邪気なほど自由闊達に語られていることに対して、だ。

 台湾独立という言葉は長年、国民党の専制支配下の台湾では禁語だった。語ったら即、牢屋行きであった。民主化のあとも、公的空間で普通の知識人はあえておおっぴらに語らない、という暗黙のルールがあった。

 だが、いまの若者たちにはそんな「常識」は「非常識」になったようだ。台湾独立という政治的現実はいまなお遠い。しかし、その考え方は台湾社会にすでに溶け込んで、まるで青空に漂う雲のように、堂々と可視化されている。

 その変化の淵源が、実は、日本で独立を掲げた戦ったタイワニーズの傑物たちにあったことは、意外なほど日本では知られていない。

 台北で、白いスーツと白髪をトレードマークとする洒脱な90歳の老人と向かい合った。若い頃はプレイボーイで名を馳せて銀座を闊歩し、現在は民進党の影のスポンサーとも言われる。

 台湾メディアに「独派大老(台湾独立派の長老)」と形容されるグー・クワンミンは台湾きっての財閥・辜(グー)家の八男だった。1947年に起きた蒋介石・国民党政権の民衆弾圧「2・28事件」で身の危険を感じて香港経由で日本に逃亡。日本で結成された台湾青年社(のちの台湾独立建国連盟*注1)に参加し、1965年から1970年まで委員長も務めた。 「私にはちょっとした資金があった。どんどんお金を投じて(連盟の機関紙)『台湾青年』という刊行物を世界中で発行し、組織を拡大させたんです」

(*注1:1960年東京で王育徳を中心に台湾青年社が成立、「台湾青年」の発行を始める(02年、停刊)。1963年、台湾青年社を台湾青年会に改称、黄昭堂が委員長に。1965年、台湾青年独立連盟に改称、グー・クワンミンが委員長に。その間、逮捕者を出した1964年の「陳純真事件」1968年の「柳文卿事件」などを経験しながら運動を堅持。1970年に台湾独立連盟に、1987年に台湾独立建国連盟に改称。1992年に連盟幹部の入国禁止が約30年ぶりに解かれる。)

 若い仲間たちはグー・クワンミンの大胆さに惹かれた。が、のちに「追放」の憂き目にあう。19721972年の「蒋経国面会事件」が引き金だった。

「国策を論じたいので私に会いたいと人を介して蒋経国から連絡があり、二度断ったんだけど、三顧の礼って話がありますでしょ、さすがに三度目は断れなかった」

 蒋経国は、組織が骨の髄まで憎む蒋介石の後継者だ。グー・クワンミンは仲間に内緒で密かに台湾に向かった。蒋経国は国際社会での孤立を感じ、新しい台湾統治を模索していた。敵視する独立派の言葉に耳を傾ける必要に迫られるほど追い詰められていた。

 蒋経国に対し、グー・クワンミンは政党の自由化や本省・外省の区別の撤廃(*注2)などを建言した。

(*注2:第2次世界大戦前より台湾に居住する台湾人を本省人、その後に台湾に移住した大陸人を外省人と呼ぶ。近年まで、本籍欄に明記されており、差別や対立の背景になった。)

 蒋経国も黙って耳を傾けていたが、グー・クワンミンが「大陸反攻、これは痴人の夢ですよ」と言うと、座の雰囲気が一変した。

 日本語教育を受け、台北高等学校に通うエリートだったグー・クワンミンは日本語がもっとも身近な言語である。とっさに愛読する谷崎潤一郎「痴人の愛」が思い浮かび、絶望的になった大陸反攻をなお掲げる蒋政権を揶揄したのだった。

「私は可能だと信じる」。蒋経国も激しく反論し、口論になった。

 心配した蒋経国の部下があわてて部屋に入ってきた。議論の中身は知らない。グー・クワンミンはとっさに「あんたに聞くが、大陸反攻と台湾防衛、どっちが優先かね」と話を振ると、部下は即座に「台湾防衛です」と答えた。

「そのときの蒋経国の顔はね、一生忘れられない。なんとも言えない苦々しい顔だった。でも私を見送るときも深々と頭を下げて、最後まで礼を失わなかったのはさすがだと思いました」

 蒋経国から一本取ったグー・クワンミンだったが、帰国してその件を仲間に打ち明けると、徹底的に糾弾され、連盟を除名となった。

◆今も密使と面会を重ねる

「グー・クワンミンには、夢見がちというか、理想主義者的なところがあった。蒋経国に会えば何かが変わると本当に思っていたんだろう」

 独立運動に初期から関わった唯一の日本人で、いまも連盟日本支部の理事を務める宗像隆幸は、苦笑いを浮かべつつ振り返った。

 グー・クワンミンの父は日本統治時代に一代で財閥を築き上げた辜顯榮(グー・シェンロン)だ。日本の貴族院議員まで務めた成功者だが、日本軍や台湾総督府と密接につながったことで「漢奸(売国奴)」の汚名も浴びせられた。

 グー・クワンミンの腹違いの兄・辜振甫(グー・ジェンフー)も日本の敗戦後、台湾駐留の日本軍と共謀して独立を企てた疑いで国民政府に逮捕されている。釈放後は辜家の力を借りたい蒋介石が和解に応じ、その後は台湾最大の金融グループ中国信託金融グループを擁する辜家財閥を再興した。台湾財界を率い、1990年代には李登輝の意を受けて中台対話の窓口という大役を務める。

 反政府に立つかと思えば、権力の懐にも飛び込む一族。

 辜家の歴史を研究する台湾師範大学の呉文星(ウー・ウェンシン)名誉教授は「機を見るに敏で、リスクも恐れない山っ気のある政商の血が辜家の人々には流れている」と指摘する。その血が、グー・クワンミンを蒋経国との対話に応じさせたのだった。

 グー・クワンミンはほかにも台湾との断交を控えた日本政府からも頼られ、大平正芳外相に託された極秘メモを持って台湾を訪れた。いまも蔡英文政権の「顧問」として中国の密使と面会を重ねるとされる「なまぐさ老人」だ。

 一方で、愚直なまでに純粋に独立を唱え続けた者もいる。

◆「我々を助けてほしい」

 6月4日、東京で独立色の強い台僑団体「全日本台湾連合会」(*注3)の発足式があった。

(*注3:中華民国への愛国意識を基本とする中華華僑総会など従来の台湾系華僑団体と一線を画してきた台湾本土・独立系の台僑グループら17団体が結集して2017年6月に発足。「台湾優先、団結第一」がスローガン。)

 蔡英文総統の祝電も届いた晴れ舞台で、連合会に加わった連盟の日本本部委員長としてひときわ注目を集めた女性がいた。王明理(62)だ。

 父親は王育徳という。台南出身で日本の台湾独立運動の父とも呼ばれる。国民政府に批判的だった検察官の兄が2. 28事件で行方不明になり、台湾を脱出して香港に逃亡した。引き受け役は同様に香港に逃亡中の同郷・邱永漢(*注4)だった。

(*注4:邱永漢/1924〜2012年。台南生まれ。東京帝国大学経済学部卒。終戦後、台湾に戻って台湾独立運動に関わった容疑をかけられ、香港に逃亡。日本に渡り、独立運動に関わりながら、『密入国者の手記』『検察官』『濁水渓』など台湾の政治状況に関する一連の小説を発表し、1955年に『香港』で外国人初の直木賞を受賞。)

 当時の香港は台湾から自由に出入りできた。日本には貨物船を使って密航などで渡った。台湾→香港→日本という逃亡ルートはグー・クワンミンも使った。邱永漢はグー・クワンミンとも親しく、ほぼ同じ時期に3人は日本に渡っている。

 邱永漢は、王育徳の兄の悲劇を「検察官」という小説にして発表したが、王明理によれば、邱永漢は王育徳に無断で発表してしまったようだ。野心家の邱永漢らしい話だが、王育徳はあえて咎めようとせず、2人の個人的な関係は変わることはなかった。邱永漢はのちに台湾の蒋介石政権に「帰順」し、王育徳らが立ち上げた独立運動と袂を分かつ。

 地道に台湾独立理論の構築に励んだ王育徳のもとには、現在評論家として活躍する金美齢や、作家の黄文雄、駐日台湾代表を務めた許世楷、昭和大学教授を務めた黄昭堂(故人*注5)など、日本社会で後に活躍するキラ星のような人材が、その理想家肌で温厚な人柄を慕って集った。

(*注5:黄昭堂/1932〜2011年。台南生まれ。台湾大学を卒業後、1958年に日本に留学し、台湾独立運動の中心に立ちながら、『台湾総督府』『台湾民主国の研究』などの著書を残した。1992年に台湾に戻り、台湾独立建国連盟の主席につく。2004年の総統選で、全島の支持者が手をつなぐ「手牽手」の運動を呼びかけ、不利とされた陳水扁の戦況を覆し、僅差での勝利につなげた。)

 王育徳は一時、連盟から研究のために遠ざかり、その穴を埋めたのがグー・クワンミンだった。

 1969年には連盟の若者たちが首をそろえて王育徳のもとを訪ねた。「運動に戻って我々を助けて欲しい」。深々と頭をさげた面々の姿を、幼い日の王明理はよく覚えている。

 王育徳は「言語が滅びるときは民族が滅びる」という信念から台湾語教育の普及と独立運動に生涯を捧げ、1985年に61歳という年齢で亡くなる。

 王明理によれば、王育徳は心臓に異常があり、医師から精密検査を受けるよう警告を受けていたが、独立運動の国際会議の準備のため治療を先延ばしにしていた。 「亡くなる直前、パパは疲れたなあ、でもママに言わないでね、ガミガミ言われるからって言われたんです。止めておけばよかったって今でも思います」

 遺品を整理すると、王育徳の未発表の自伝が見つかった。日本逃亡までの人生を詳細に記していた。母に聞くと、40歳ごろの王育徳が書いたもので、母や伯母に「若いのに自伝は早すぎる」と発表を止められたものだった。

 王明理が整理し、出版する役割を負った。自分で戦後部分を書き足し、『「昭和」を生きた台湾青年』(草思社)などの出版にこぎつける。筆まめの王育徳が残した膨大な資料の整理はなお続き、本格的な伝記を改めて執筆中だ。

 亡き父の姿を追いながら、独立運動に深く関わるようになった王明理は、半ば困ったような、半ば嬉しそうな表情で、こんな感慨を漏らす。

「委員長は2年だけ引き受けてほしいという話でしたが、もう6年ですね。この30年、ずっと父から出された宿題をやっている気がします」

 生前に台湾の民主化を見届けることはなかったが、王育徳が育てた人々は、日本社会で台湾の名前を堂々と使いながら第一線で活躍した。台湾の存在と主張を日本で広げながら、安倍晋三ら保守政治家との密なパイプを築いた。

◆「夢は捨てない」

 王明理の前に本部長を務めた黄文雄は、年数十冊に達する膨大な著書を発表し、台湾と中国の違いを日本人に説き続ける。

「我々は政党じゃなく、運動団体だから、台湾のどの政党とも付き合って台湾の民主化を陰で支えてきた。日本語で八百万の神っていうでしょう。我々は万能じゃないけど、しゃべりがうまい人、本を書く人、お金を出す人、みんな個性があり、それぞれの役割を果たしてきたんですね」

 日本を発源地とする台湾独立運動。民主化した台湾の現状に、宗像隆幸はかつて日本の公安や蒋介石政権のスパイから監視対象となった連盟の事務所があった新宿の安アパートで「台湾の民主化という我々の願いは、ほとんど実現してしまった」と安心したように語った。

 ただ、次世代を担う王明理は、少し違った見方をする。

「昔は一党独裁の中華民国体制を変えれば独立できると思っていたけれど、大陸の中国の力が強くなりすぎて、それが想定外。でも一滴の血を流さずに民主化したことも奇跡ですから、台湾独立の夢は捨てません」

 台湾の主体性を重視する蔡英文政権の誕生と新しい独立への敵・中国の強大化という相矛盾する事態に戸惑いながら、台湾独立運動も大きな岐路を迎えている。

 取材に応じた人々に、私は図々しく「あなたは何人ですか」とアイデンティティを尋ね続けた。

「台湾人でもあり、日本人でもある」と答える人も「日本人に限りなく近い台湾人」と答える人もいた。「日台人」という人もいた。

 グー・クワンミンは「非常に困った質問でございますね。私は21歳まで日本人だったわけですから」と言って、暫らく言葉を切って、語った。

「台湾の独立を信念とする以上、私は台湾人ですが、最も打ち解けられて居心地がいいのは日本人の友達と一緒にいるときです」

 独立運動の大物の一人の黄昭堂には、新聞社の特派員時代、ときどき台北の歓楽街に呼び出されてはウイスキーを飲まされ、少年時代の日本語教育に加え、戦後の独立運動で日本語の文章を書き続けて鍛えた流暢極まりない日本語で、延々と台湾の歴史や独立運動の意義を聞かされた。

「野嶋さん、台湾と日本の最大の絆はね、私のように日本を自分のなかに抱え込んだタイワニーズなんだよ」

 そんな場で黄昭堂から一度ならず聞かされた言葉だ。タイワニーズという言葉がやけに印象深くて忘れられなかった。その言葉の深い意味が、連載を書き進めながら、私のなかでも次第に輪郭を伴って理解できるようになった。

 多くの台湾人は、日本が深く関わった歴史の荒波のなかで台湾という故郷に別れを告げたが、日本という第二の故郷に出会った。アイデンティティや台湾への思いに違いはあっても、その存在自体が、今日の日本にとっても、台湾にとっても、二つの地をつなぐかけがえのない財産なのである。

●【著者プロフィール】1968年生まれ。上智大学新聞学科卒。在学中に香港中文大学・台湾師範大学に留学。1992年朝日新聞社入社後、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験。政治部、台北支局長、AERA編集部などを経て、2016年4月からフリーに。主な著書に『ふたつの故宮博物院』『台湾とは何か』。

※SAPIO2017年8月号