佐々木健一『Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男』(文藝春秋)

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竜巻発生の瞬間を、その真上から見てみたい――。竜巻の大きさを表す「F(フジタ)スケール」の生みの親、藤田哲也(1920−1998)。気象学の門外漢でありながら持ち前の直感力と類まれな行動力で次々と新説を立証し、45歳でシカゴ大学教授の地位にまで上り詰め、ついには各地で飛行機事故を起こしていた未知の下降気流「ダウンバースト」を発見した男。米国では偉人、日本では無名の「Mr.トルネード」の、奇想天外な研究人生の一端を紹介します。

※以下は佐々木健一『Mr.トルネード 藤田哲也 世界の空を救った男』(文藝春秋)の第4章からの抜粋です。

■その尋常ではない調査飛行

1960年代から70年代にかけて藤田は、竜巻研究に夢中で取り組んでいた。

その研究姿勢は、まさに神出鬼没。ひとたび竜巻が発生すれば、翌日には飛行機に乗って現場上空を飛び、被害状況を自ら撮影した。決して研究室や自宅の二階に閉じこもっているような学者ではなかった。

「私は、小さなセスナ機で2万5000マイル(約4万キロメートル)以上を飛びました。ひどい乗り心地でしたよ(笑)。でも、あっちこっち飛び回って、ありとあらゆる竜巻の跡を見て回りました。楽しかったですよ」

かつては、竜巻調査は地上で行われるのが常だった。そんな中、藤田は竜巻発生後の被害状況を空から調査することに力を注いだ。

「当時は、誰も調査飛行をしようなんて考えていませんでした。でも、上空からは遥かに色んなものがよく見えるんです」

頻繁に藤田が乗るセスナ機に同乗した愛弟子グレッグ・フォーブスは、その尋常ではない調査飛行について語った。

「藤田博士は、険しい土手の周りをくり返し旋回してパイロットを疲れさせたり、激しい雷雨の上空を危険を顧みず飛行したり……、大半の教授がしないようなことをしていました」

講演で、藤田が楽しそうに語る声が残っていた。

「セスナ機を使って、200から300フィートという低空を飛んだりしたものです。ある時、グレッグ・フォーブスを連れて、120フィート(約37メートル)まで降下しました。彼は『いやいや、やめてくれ〜』と言っていました」

被害者は他にもいた。藤田と共同研究を行った元気象庁の土屋清だ。

「藤田先生は、観測に必要だと思うと徹底してやるんです。データが気に入らないとテ〜ッと急旋回してもらって、またやるんです。もう、何回でも気が済むまでやるんですよ。私も何度も観測飛行はやってますが、急旋回するとダメでね。天と地がひっくり返ったりすると、急に気持ち悪くなっちゃって……。それで、『途中で降ろしてくれ』と言って下りたんです。そしたら、今度は先生が1人で飛ぶんだ。それで全部1人で記録をつけて。それぐらいすごいんです。科学者魂っていうんですかねぇ」

■「もっと揺れたら面白いんだけど」

藤田は、パイロットに具体的に指示しながら、命知らずの飛行を繰り返した。

「パイロットが『もう参った〜』とか、『先生には驚きました〜』とか言ってましたよ」

元日本航空機長の上田恒夫は、藤田の危険すぎる探究心を垣間見ていた。

「飛行機をチャーターして雷雲の中を突っ切らせて、実際、どんな感じなのか体験してみたいと、そういう願望も持っておられました」

──……ものすごく危ないですよね?

「危ないです、非常に危ないです。一度、藤田先生を私の飛行機にお乗せしたことがあるんですが、その時に乱気流に遭ってちょっと飛行機が揺れましたら、『もっと揺れないかなぁ〜』と言っておられたのを覚えていますけど……」

──え? どういうことですか?

「『もっと揺れたら面白いんだけど』と。乱気流に遭うと、普通のお客さんは怖がりますけど、藤田先生は『もっと揺れないかなぁ』って(笑)」

──それって、どうなんでしょう? かなり普通と違うと言いますか……。

「冒険心が旺盛ということなんですかね。とにかく『自分で体験してみたい』と」

■「スーパーセル」(回転雷雲)を上空から見る

藤田は実際に、向こう見ずな願望を実現しようとしてきた。

1961年春、40歳の藤田はある計画を実行に移した。

それは、竜巻を発生させる「スーパーセル」(回転雷雲)を上空から見るというものだった。当時、空からスーパーセルが観測された実績はなかった。アメリカ国立気象局の支援を受け、藤田がフライト・ディレクター(飛行指令者)を務め、3台の飛行機に気象観測用のコンピューターやデータ記録装置を乗せてオクラホマ市のホテルに待機した。

竜巻がまさにできる瞬間の雲を捉えるには、観測機は先に離陸していなければならない。

「果たして、そんなことができるのか」

と、不安で眠れない夜があったという。

気象条件を勘案し、観測日を4月21日と定め、運を天に任せた。

観測当日、14時45分、藤田を乗せた指令機が飛び立った。高度5000メートルで旋回し、スーパーセルの卵を探しまわる。すると、北東200キロ先の雲が突然発達し、成長した雷雲の頂上部分が広がって平らになる金床雲が現れた。藤田は直感を信じて、3台の飛行機をその雲に直行させた。

16時5分、目的の雲周辺に到着したが、残念ながらスーパーセルに発達してはいなかった。1時間後に再び、同じ位置へ戻ってみることにした。

17時49分、雲の形は一変していた。藤田は興奮のあまり、大声で叫んだ。

「一生に一度と思ってよく見て下さい! 左側に見えるのが、待ちに待った回転雷雲(スーパーセル)です!」

回転しながら聳えるように立ち上がる巨大な雲が、目の前に現れた。あまりの美しさに息を呑んだ。十数人の乗組員は全員、左側の窓からその壮大な景色に見入っていた。

無言で見とれている皆に、藤田が声を掛けた。

「オーイ、飛行機の左側が重くなったぞ〜」

思わず一同、大笑いしたという。

■竜巻発生中の親雲を、上空から見下ろす

飽くなき冒険心は、年をとっても衰えなかった。

1977年、56歳の時、また無茶な探究心がムクムクと湧き上がってきた。

「間違っているかもしれないですが、竜巻ができる時の雲を、竜巻が実際に起こる瞬間に見たいと思った」

竜巻発生中の親雲を、上空から見下ろすという前代未聞の計画。これは藤田自身も、

「初めからこの計画は無謀で、成功する可能性は非常に少ないと思った」

と振り返っている。当時、藤田はある気象学者と竜巻発生中の雲について議論していた。相手は、竜巻発生時の親雲は上空高く伸びると主張していたが、藤田は下降すると唱えていた。

竜巻発生中の親雲は高く上昇するのか、それとも下降するのか、この目で確かめたかった。

1977年2月23日、ミシシッピ州で竜巻が発生しそうな気圧配置となった。またも直感に従い、昼過ぎにシカゴのミッドウェイ空港から6人乗りのリアジェット機で離陸した。

気象台と無線で連絡を取りながら、メンフィス市上空を旋回し始める。すると、気象台のレーダーに怪しい雲が見えると報告が入った。急ぎ、その付近へ直行した。

15時9分、まさに藤田の眼前で竜巻を発生させる雲ができ始めた。雲は崩れるように下降していき、大きなくぼみができていた。自然のダイナミズムが生み出す壮大な光景は、圧巻だったと藤田は振り返っている。

「まるで自分が、映画の主人公になったような気分でした。これで竜巻が発生する時、必ずしも雲が高く伸びるわけではないとわかりました」

■「奥様はどう思われているでしょうか?」

藤田哲也は、ただの大学教授ではなかった。まるで冒険家のような心を持ち、時に危険や失敗が伴う挑戦でも、自ら飛行機に乗り込み、この目で確かめずにはいられない男だった。

そんな藤田に、シカゴの地元テレビ局のレポーターがこんな質問を投げかけていた。

──一度聞きたかったのですが、竜巻被害現場などに小さな飛行機で飛んで行かれますよね。奥様はどう思われているでしょうか?

「まったくと言って賛成していません。『大学教授の定義って何なの?』とよく聞かれます。『教えることさ』『そのはずよね。でも、どうしてあなたは、雲の空中追跡なんかするの?』『好きだから』『あなたは好きでも私は嫌よ』という具合です。しかも、私の妻は迷信深いのです。13日の金曜日には飛んでほしくないんです。でも、数回飛びました。妻には『14日の土曜日に飛ぶよ』と伝えます。そして、無事に戻ってきてから本当のことを伝えます。『14日は、天候が適していなかったから、13日の金曜日に飛んだよ』って。……もう信用してもらえません」

──想像できます(笑)。

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佐々木健一
1977年、札幌市生まれ。早稲田大学卒業後、NHKエデュケーショナル入社。ディレクターとして『哲子の部屋』、『ブレイブ 勇敢なる者』シリーズなどを企画・制作。『哲子の部屋』で第31回ATP賞優秀賞、『Dr.MITSUYA 世界初のエイズ治療薬を発見した男』でアメリカ国際フィルム・ビデオ祭2016ドキュメンタリー部門(健康・医療分野)シルバースクリーン賞を受賞。2014年、第30回ATP賞最優秀賞、第40回放送文化基金賞優秀賞を受賞した『ケンボー先生と山田先生―辞書に人生を捧げた2人の男』を元に執筆した『辞書になった男』(文藝春秋)で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。

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(佐々木 健一)