「あなたを静かに蝕む「テクノロジー依存症」──その中毒から抜け出すための処方箋」の写真・リンク付きの記事はこちら

2010年後半にスティーブ・ジョブズは、『New York Times』のジャーナリスト(当時)のニック・ビルトンに「自分の子どもたちはiPadを一度も使ったことがない」と語った。 「わたしたちは自分の子どもたちが家でテクノロジーを使う時間を制限しているのです」

ビルトンは、ほかのテック系最大手企業に勤める人々が、同様の制限を課していることに気づいた。 『WIRED』US版の元編集長クリス・アンダーソンは、自宅のあらゆるデヴァイスに厳しい制限を設けていた。「テクノロジーの危険性を自分の目で見てきたからです」。彼の5人の子どもたちは寝室でディスプレイを見ることは絶対に許されなかった。

Blogger、Twitter、Mediumの創設者であるエヴァン・ウィリアムスは、ふたりの幼い息子のために何百冊もの本を購入したが、iPadを与えることは拒否した。アナリティクス企業の創設者であるレスリー・ゴールドは、子どもたちに厳しい「平日はディスプレイを見てはいけないルール」を課したのだ。彼女は、学校でコンピューターが必要なときだけ態度を少し和らげた。

心配になってくる。公には世界最大の“テクノロジー高級官僚”である彼らが、どうして個人的には最大のテクノロジー嫌いなのか? 彼らはまるで麻薬取引の鉄則に従っているかのように思える。自分は決して「ハイ」になるな、ということだ。

Facebookには無限のフィードがある。 Netflixは自動的に次のエピソードの再生を始める。 Tinderはよりよい選択肢を見つけるためにユーザーにスワイプし続けるよう促す。ユーザーはこれらのアプリやウェブサイトがもたらす利益を享受するだけでなく、ほどよく手間をかけさせられている。

依存とは主に環境によって生じる

「デザイン倫理学者」のトリスタン・ハリスによると、問題は人々に自制心が足りないということではない。「スクリーンの向こう側に何千人もの人がいて、彼らがあなたの自己規制を台無しにしようとしていること」なのだ。

こういったテクノロジーの専門家が懸念を示すのは当然である。テクノロジーの最前線で働くなかで、彼らはふたつのことを発見した。まず、わたしたちの依存に関する理解が浅すぎるということだ。わたしたちは、依存とは特定の人々が生まれもった病気のようなものだと考える傾向がある。その人たちに依存症というレッテルを張るのだ。空き家のテラスハウスにたむろしている人はヘロイン中毒、チェーンスモーカーはニコチン中毒、薬物常用の処方箋をもつ人は薬物依存といった具合に。

このレッテルを貼る行為は、彼らがほかの人間とは異なることを示唆しようとしている。彼らはいつか中毒から抜け出すかもしれないが、いまのところは彼ら独自のカテゴリーに属しているのだ、と。

実際のところ、依存とは主に環境によって生じるものだ。ジョブズはこのことを知っていた。彼は子どもがiPadの魅力に取りつかれやすいことを知っていたから、iPadに触らせないようにしていた。子どもたちを物質依存にさせないために。

こういった起業家は、彼らが推進するツールは我慢できないように設計されていて、ユーザーを無差別に罠にはめることを知っているのだ。依存症にかかった人とそうでないわたしたちの間にはっきりとした境界線はない。商品や経験の依存症は、わたしたちと隣り合わせなのだ。

人類史上“最強”の中毒性

デジタル時代の環境は、人類がこれまでの歴史のなかで経験したものよりもはるかに依存を助長する。1960年代にはタバコ、アルコール、高価で一般的にアクセスできないドラッグなど、誘惑の数は少なかった。2010年代には、数多くの誘惑が存在する。 Facebook、Instagram、ポルノ、電子メール、オンラインショッピングなどだ。このリストは、これまでの人類史のなかでもずっと長く、いまわれわれはこの誘惑の力を思い知らされている。

現代のテクノロジーは効率的で依存性が高い。何百万人もの人々がInstagramの投稿を通じてリアルタイムで自分の人生を共有し、その人生はコメントやいいね!という形で評価される。かつてダウンロードに1時間かかった曲は数秒で落とせるようになり、最初の段階でダウンロードを諦めさせるような遅れはなくなった。

洗練された技術、ゲーム、インタラクティヴなものをつくり上げる人たちは、自分たちがやってることに精通している。何百万人ものユーザーに、何千回ものテストをし、どういった微調整が有効か、たとえばどういった色、フォント、オーディオトーンを使えば、人を最大限にのめりこませ、不満を最小限に抑えることができるかを彼らは調べているのだ。実験が進歩するにつれ、かつての経験が、欲求が耐えられない、“武装”されたバージョンに変化する。2004年時点においてFacebookは楽しいものだったが、 16年には依存性をもつようになった。

依存性の高い行動は長い間存在してきたが、近年ではより一般的で我慢しにくくなり、より主流となってきた。 こういった新しい依存は物質の摂取を伴わない。化学物質を体内に直接注入するようなことはしないが、魅力的でうまくできているから同じような効果をもたらす。 ギャンブルや運動のようなものはもう古い。 同時にたくさんのものを見ることやスマートフォンの使用などは比較的新しい。しかし、こういったものに抵抗するのが少しずつ難しくなってきている。

テクノロジー依存を見つけるのは難しい

わたしはこの問題の深刻さを訴える数人の心理学者と話をした。「わたしが診る患者はみんな、少なくともひとつの依存症にかかっています」と心理学者のひとりが語った。「それはあらゆる分野にわたっています。ギャンブル、ショッピング、ソーシャルメディア、電子メール──」。彼女は数人の患者をこのように描写した。

彼らはみな非常に有能でキャリアがあり、収入も非常に高いが、依存症に深く悩まされていた。「ある女性は非常に美しくて明るく、とても成熟しています。彼女は修士号をふたつもっていて、講師をしています。しかし彼女はオンラインショッピングにのめりこんでいて、80,000ドルもの借金があるのです。しかも彼女は自分の依存症を隠し通せているのです」

こういった細分化は共通のテーマだ。「中毒行動を隠すことは薬物乱用を隠すことよりもはるかに簡単です。彼らは何年も気づかれないので、危険なのです」

二人目の患者はFacebook中毒であることを友人から隠せていた。「彼女は酷い別れを経験し、元彼を何年間もネット上でストーキングしていました。Facebookにおいてきっぱり関係を終えるのはとても難しいのです」 。彼女が診察した男性は、1日に何百回も自分のメールをチェックしていた。「彼は休みの日にもリラックスして楽しむことができません。彼は非常に不安を抱えているのですが、外見はとてもよく見えるのです。医療業界で成功したキャリアがあり、彼がどれだけ苦しんでいるのは外見からは分かりません」

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依存症を克服し、そのメカニズムを利用する

『Irresistible』は常習行為の高まりをなぞった本だ。本書は常習がどこから始まるのか、誰がデザインしていてるのか、どんな心理的トリックがそれを惹き寄せるのかを検証し、危険な依存症を最小限に抑える方法やその科学を利用して有益な目的を達成する方法を探っている。

テクノロジーは、大量消費のためにそれを流行らせる企業によって行使されなければ、道徳的には善でも悪でもない。アプリとプラットフォームは豊かな社会的繋がりを促進するように設計できるし、タバコのように依存症にさせることもできる。残念なことに、現在ある多くのテクノロジー開発は依存症を促進している。多くの点で物質依存と行動依存は非常に似通っているのだ。

行動依存は次の6つの要素から成る。手の届かない魅力的な目標、非常に魅力的で予想のつかないとポジティヴなフィードバック、徐々に増加する進歩と改善の感覚、時間の経過とともに少しずつ難しくなるタスク、問題が解決しない緊張感、そして強い社会的関係だ。その多様性にもかかわらず、現在の行動中毒はこれらの6つの成分の少なくともひとつを具体化したものだ。

結果、Instagramには中毒性がもたらされる。いいね!がたくさんつく写真もあれば、つかないものもある。ユーザーは、いいね!がたくさんもらえるように次から次へと写真を投稿し、友人をサポートするためにそのアプリへ何度も戻ってくる。ゲーマーは任務完了のため突き動かされ、ほかのゲーマーと強い社会的結びつきを形成しているので、何日間もゲームをし続ける。

健全な行動を促す「習慣」の重要性

それではどういった解決策があるのだろうか? 生活の中心にあり中毒性をもつものと、どのように共存すればいいのか?

何百万人ものアルコール依存症から回復しつつある人は、バーを完全に避けられるが、インターネット依存から回復しつつある人たちはメールを使用しなければならない。電子メールを使わずに旅行ビザの取得はできないし、メールアドレスがなければ働くことすらできない。コンピューターやスマートフォンなしでできる近代的な仕事の数はだんだん少なくなってきている。常習性の強いテクノロジーは中毒性物質と異なり、広く普及しているのだ。

禁欲は選択肢になりえないが、ほかにも選択肢はある。中毒性のあるものを人生の隅に置いて、健全な行動を促進するいい習慣を身につけることだ。中毒的な行動がどのように機能するのかを理解すれば、その害を軽減したりうまく活用したりすることさえできる。子どもたちにゲームをさせるように、学校で学ぶように促せるかもしれない。人々を中毒的に運動するよう促せるなら、定年後のためにお金を節約させられるかもしれない。

行動依存はまだ研究の進んでいない分野だが、危険が指摘されている。仕事や遊びから基本的な衛生、社会的交流に至るまで、ほかの本質的な追求を締め出してしまうからだ。不幸中の幸いは、行動依存との関係が固定されていないことである。スマートフォン、電子メール、ウェアラブル技術、ソーシャルネットワーキング、オンデマンド配信が存在する以前の時代のバランスを回復するために、できることはたくさんある。

なぜ行動依存がここまで広がっているのかを理解する鍵は、行動依存が人間の心理をどのようにして魅了するのか、わたしたちを傷つける依存症を克服する方法を理解することだ。

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