混迷の時代に求められる哲学とは何か? 注目の哲学者に聞く「『哲学』の時代」シリーズ第3回は、大阪大学教授の檜垣立哉さん。そのユニークな哲学者への道を伺った前編に続く後編は、「競馬」が教えてくれる人間の本質について、そして人間はなぜ哲学を必要とするのかまで語っていただいた。

自分にはどうしようもできない「偶然」について考え続ける


 

―― そもそもなぜ、競馬を哲学しようと思ったんですか?

檜垣 僕には忘れられないレースが二つあるんです。一つは1990年、オグリキャップがその年の不調を乗り越えて「奇跡の復活」をした有馬記念。もう一つは93年、1年ぶりのレースでまさかの復活を果たしたトウカイテイオーの有馬記念。どちらも中山競馬場で観戦していたんですが、信じていないけど起きて欲しい「奇跡」がまさに発生したんです、目の前で。もともと学生の頃から「偶然」という現象を、どう言葉で言い表わせばいいのかは問題設定として抱いていたんです。それが、特にこのレースで見た奇跡で、自分のテーマとして立ち上がった気がします。

―― そこから生まれた競馬することの哲学、賭ける哲学とは一体どういうものなんでしょうか?

檜垣 投資ってお金を投げるっていう意味ですよね。これと同じで賭けるって当たるか外れるか分からないけど、投げてみるっていう行為なんです。もしかしたら当たるかもしれない、という状況に身を賭す。つまり、決定されていないものに対して身を委ねる、ということです。これって、賭けた結果に何が起こっても認めなければならない、ということですよね。競馬だったら、馬券が当たっても外れても、まさかという大波乱の結果になっても、オグリキャップ奇跡の復活のような絵に描いたようなドラマチックなことが起こっても、それが現実に起きたことを承認しなければならない。自分にはどうしようもないことを目の当たりにするわけです。言い換えれば、解決しようのないもの、コントロールしようのないものに、対峙することになる。


決定されていないものに対して身を委ねる

―― 確かに、生きるということはその連続という気がします。

檜垣 そうですよね。それを突き詰める哲学なんです。出会いなんかまさに、自分ではどうしようもない出来事でしょう。だから恋愛はまさに「偶然の哲学」ですよ。この辺りは日本だと九鬼周造の『「いき」の構造』で 論じられているところです。まあ難解な本ですけど。

朝になって通勤の人が歩き始めたら、哲学の時間は終わりましたって感じ

―― 檜垣さんはベルクソンとか、ドゥルーズとか、フランス哲学が専門ですが、『日本哲学原論序説』という本もあるように、日本の哲学研究にも目を配られていますね。

檜垣 大学のときから九鬼とか西田幾多郎とか和辻哲郎には関心があったんです。坂部恵先生の講義では「しじま」とか「まい」とか「せぬこと」とか、独自の日本語の哲学を展開されてました。坂部先生独特の言葉遣いは分かりにくいのですが、かなり影響はされていると思います。


 

―― 日本人の哲学は、やはり日本語じゃないと理解できないニュアンスがあるんですか?

檜垣 それはあると思いますけど、一方で非常にユニバーサルな感覚で展開されてもいるんです。西田なんか、思考の中身がほとんどヨーロッパ。そのハイブリッド性が特殊な西田哲学を生んだと思います。まあ、文章自体は小林秀雄が「あんなものは日本語じゃない」と言ったくらいのものですが(笑)。

―― ちなみに、檜垣さんはどんな時に思考が冴えますか?

檜垣 完全に夜ですね。ものを書くのはだいたい午前3時から6時にかけてで、朝になって通勤の人が歩き始めたら、哲学の時間は終わりましたって感じ。何かがひらめくのも決まって真夜中です。


研究室にはもちろん、杉元清実況の競馬ビデオもあった

今、真夜中に考えていることは「食べることの矛盾」

―― では、現在は真夜中にどんな問題を考えているんですか?

檜垣 やっぱり「自分ではどうしようもできないこと」にどう向き合うかが僕のテーマで、いま考えているのは「食べること」についてです。食べるという行為には人間の矛盾が如実に表れているんですよ。

―― 矛盾ですか?

檜垣 ええ、例えば人間は生き物を殺して食べているけど、犬とか猫とかを殺すと警察に通報されますよね。どちらも生き物を殺す行為には違いないのに、どこで線引きがされているのか。どこまでが許容されて、どこからが悪いことなのか。正面から問われたら、矛盾してるなあと気づく。


研究室にて

―― なかなか明らかな答えを出しにくい問題ですよね。

檜垣 あと、日本人って尾頭付きの刺身とか平気で食べますよね。でも外国人は「顔があるものは食べられません」って言う。日本人は魚に対しては他の動物とは違う独特の感性を持っていると思うんですが、それもとことん考えてみると、やっぱり矛盾している。なんで、魚の頭は大丈夫で、鶏の頭があったら抵抗感があるのかとか。そうやって人間って、矛盾していることを先鋭化させないようにやりくりして生きているんです。

―― 生きていることは矛盾を抱えることである、と。

檜垣 そうです。『豚のPちゃんと32人の小学生』っていう映画にもなった本を教材にして、授業であつかうこととかよくあるんです。それなりに有名な話なんでご存じかも知れないんですけど、大阪の小学校で命の授業として豚を飼って食べようと実践したクラスの話ですね。その中である女の子が「Pちゃんを殺さないで」と泣きじゃくるんですけど、きっと晩ご飯にカツカレーが出たら喜んで食べるとおもうんです。でもその女 の子は何も悪くない。そこにあるのは、人間という存在が持つ矛盾そのものなんです。


小津を揃えたのはドゥルーズの影響なんですよ

工学部の学生から「先生の講義ほど意味のない講義は初めてでした」って

―― Pちゃんは殺せないけど、カツカレーの豚は平気というのはどこに違いがあるんでしょうね。

檜垣 一つは顔があるかないか、もう一つは名前があるかないか、でしょうね。顔とか名前があることで、ある存在が「かけがえのない個体」として出現しちゃうんですよ。顔の問題についてはレヴィナスとかが論考していますし、名前についてはクリプキの論が有名です。


 

―― こうした根源的な問いかけを突き詰めていくのが哲学なんだと思いますが、学生に伝わらないなあ、話が通じてないなあと思うときはありませんか?

檜垣 ありますよ(笑)。自分はリーディング大学院という、研究科に関係ない、文理統合のような組織の授業ももっているんですけど、工学部のやつが「先生の講義ほど意味のない講義は初めてでした」って言うんですよ。何を話したかというと、「競馬というものは当てることに意味があるのではなくて、当たることに意味がある」という偶然性についてなんです。でも、彼に言わせれば、競馬を考えるということは「最大効率で儲けるには、どんな確率計算をして、どんな買い方をすればいいのか」を追究すること、その一点じゃないかと。だから「意味がない」って。

―― ストレートですね。

檜垣 こうやって言われたら激怒する大学の先生が多いと思うんですが、僕は「よし、彼に爪痕を残せたな」と思いました(笑)。「僕は君みたいには考えないんだよ」と答えたんですけど、こうやって世界には別次元で考えている人がいるとか、「意味がない」ことを考えている人がいるってことを知ってもらうのは、社会的に意義があるはずだと思っているんです。


若いということと暴力とを考えるとき、相米慎二の映像は本質的。自分の青春と重なります。こうの史代さん『夕凪の街 桜の国』は、ある意味で生きることはすべて戦争だということを描いていて逆にとても印象的。元気になります

生きるということは「うろたえ」の連続である

―― 文学や哲学を大学で教えることをめぐっては「意味がないから」とか「実学性がないから」こそいいんだという考え方も中にはありますよね。

檜垣 でも、そうやって開き直っちゃおしまいで、意味がないことの意味を問い詰める必要があります。例えば、さっきの工学部の彼が言うことは「合理的」なんですよ。そりゃ、自分で競馬工学が解明できて、儲けられりゃそれに越したことはない。ただ、世の中は大体が「不合理」なんですよ。社会だって人生だって、現実というものは、なんだか訳のわからない出来事が、偶然目の前に出現して「うろたえる」ことの連続です。生きているっていうことは、そういうことだと思うんです。だから、合理とか効率を追求する一方で、人生で避けられない不条理とか、矛盾とか、それをどう呑み込んで生きていくかを考えていくことは、理屈だけの実用性のない意味のないことのように思えて、実は意味がある。僕はそう思っています。


 

―― では「文系学部廃止論」についてはどうお考えですか?

檜垣 文系研究者は特に自分の研究の意味を問い詰めなければならないんだと思います。それができないなら、廃止したほうがいい。意外と自分の領域を守りたい学者って多いんですよね。こもっちゃう人が多くてびっくりしています。本当は別領域の人や学生と議論したほうが、知的に健全だし、自らの研究の意味がわかるはずなのに。あと、日本の文系研究のガラパゴス化問題は、いよいよ憂慮すべき事態ですよ。

―― どういうことですか?

檜垣 最近毎年ドゥルーズに関する学会がアジアで開かれて、来年はフィリピンで行われるんですけど、必然的に発表は英語になるんです。僕自身はドゥルーズはフランス哲学なんだから、フランス語でしょうなんて思うわけですが、これはもう世界の趨勢だから仕方がない。で、もはや日本以外の院生はみんな当然のように英語でしゃべるんですよね。僕は日本の人文学は明治以降150年、独自に発展してきて、しかも1億人以上の日本語の読者がいたというバックボーンがあったこと自体は誇るべきだと思う。これ自体は重要な「日本の知」です。でも、今の凄まじいグローバル化は賛成反対にかかわらず進行していくだけだし、その流れの中で世界から取り残されているのが日本の大学院という状況なんです。逆に台湾や韓国の優秀な院生は本当に世界を見ていますよ。それで日本語も英語も中国語もできたりする。これでは日本の学者はどうしようもないな、取り残されているだけだなと強く感じます。


 

人間存在を脅かすAI、シンギュラリティの問題が発生しているからこその「哲学の時代」

―― 日本の哲学研究が孤立しないように後進を育てることも、今後の使命になってくるのではないですか。

檜垣 自分で言うのもなんですけど、競馬に例えると、僕はわりと好位に付けてレース展開している研究者人生だと思うんです。今もバロック哲学に関する本を出そうとしたり、またホワイトヘッドやパースとかのアメリカの哲学についていろいろ翻訳や紹介も行いたいなと思っています。競馬だけじゃなくて、アカデミックな仕事もしてるんですよ(笑)。それに加えて、後進を育てる仕事もちゃんと取り組まなきゃならないと思っています。哲学者って基本的に暇なはずなんですけどね……、色々やることはある。

―― ということは、これからも時代は哲学を必要とし続けるという確信が、檜垣さんにはある、と……。

檜垣 人間の存在とは何か、言語とは何か、芸術とは何か、神とは何かといった哲学は、人間が自然と対峙したときに生まれる「何だこれは」「どうしよう」といった「うろたえ」によって展開してきたところがあると思うんです。それは現在も変わりません。どんなに技術が進化して合理的な世の中になっても人間は常に不測の事態に巻き込まれるし、うろたえ続ける。だから哲学は展開され続けるし、必要とされ続けると信じています。いやむしろ、人間存在を脅かすようなAIだとか、シンギュラリティの問題が発生している現在だからこそ、それに対する「うろたえ」とどう共存していくか、どう折り合いをつけていくか、人間としての考えが導かれなければならないはずです。

 なので、僕はけっこう楽観的ですよ。たとえ国家が見捨てたって、哲学は生き残るんです、絶対に。


 

ひがき・たつや/1964年埼玉県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中途退学。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授。著書に『ベルクソンの哲学』『西田幾多郎の生命哲学』『賭博/偶然の哲学』『哲学者、競馬場へ行く』などがある。

(「文春オンライン」編集部)