(撮影:加藤順子)
 
東京都中央区の、銀座からも1キロほどという立地での開業以来、80年以上にわたり「日本の台所」役を担ってきた築地市場が、移転問題で揺れ続けている。
 
老朽化を主な理由として、江東区豊洲への移転が決定されたのが'01年。'16年11月には新規開業の予定だったが、直前に就任した小池百合子都知事(65)が、豊洲の安全性の確保が不十分であることなどを理由に移転延期を発表。これを受けて今年1月17日に、卸業者が陳列する魚介類などの食材を“セリ”で買い取る築地の仲卸業者を中心とした女性たちのグループ「築地女将さん会」が発足。老舗の鮮魚仲卸「樋徳商店」の女将・山口タイさん(74)は、周囲に推されて、その初代会長に就任した。
 
今年6月20日。「築地は守る。豊洲は活かす」。小池都知事らしいキャッチーなフレーズで、築地市場は5年後をめどに「食のテーマパーク」を有する拠点として再開発すること、豊洲市場は冷凍冷蔵などの機能を強化した総合物流拠点とすることなどの基本方針が発表された。
 
7月2日の都議会議員選挙では、都知事率いる「都民ファーストの会」が圧勝。築地女将さん会の月1回の定例会が行われたのは、このわずか2日後だった。その定例会でタイさんは30人の女将さんを前に、こう宣言した。
 
「豊洲には『行けないんです』ということを、あらためてはっきり申し上げたい。汚染の問題もあるし、このままでは移転費用がまかなえなくて、廃業せざるをえない店も出てきます。そんな現状を、小池都知事に届けましょうね」
 
長年かけて育んできた顧客との関係、商売敵の壁を超えて支え合ってきた仲間。タイさんは女性のネットワークを生かして、築地でしか営めない生活を守ろうとしている――。
 
「樋徳商店さんとは、先代からのお付き合いです」。女将さん会メンバーで、実家の鮮魚仲卸「大仲」を35歳で継いで、社長も務めていた今井千鶴さん(65)が語る。
 
「魚河岸は、なにしろ“切った張った”の世界。築地の女将さんのなかには、朝3時半に三つ指ついて、『行ってらっしゃいませ』と、ご主人を送る方もいます。外から嫁いだタイさんが女将としてやっていくには、陰でご苦労もあったと思います。彼女はみんなをやわらかくおさめることができる人望の持ち主。先代のご夫婦も、“縁の下の力持ち”という存在でしたね」(今井さん)
 
同じくメンバーで、場内の飲食店「豊ちゃん」の女将だった長田光子さん(90)はこう話す。
 
「もう亡くなりましたが、築地の飲食業組合の役員をしていた主人のモットーは、『役員会の招集がかかればすぐに店を空けられるように、1人は従業員を余分に雇っておくんだ』。リストラばかりが言われる現在とは真逆の発想でした。タイさんは、またたく間にみんなの意見をまとめて、堂々としています」(長田さん)
 
証言に出てきた、樋徳商店の先代の“縁の下の力持ち”的なエピソードは、タイさん自身の口からも語られた。
 
「あるとき、ほかの店のお客さんがウチに来て言うんです。『ひいきにしている店主が具合が悪くて店を畳みそうだから、今度は樋徳さんから買いたい』と。すると、先代はこう話したんです。『そんなこと言わないで、あちらで買ってあげてくださいよ。私で手伝えることはしますから』」(タイさん)
 
築地には、つかず離れずながら、いざというときには、グッと相手の懐ろに入り込む人情が生きていた。もちろん、いまも受け継がれている。
 
「うちの息子も、お客さんがたとえば安い魚を買おうとしていると、はっきり言います。『これは昨日のものなので、煮物ならいいですが、生ならあっちのがいいですよ』と。ごまかして売ることはしないというのは、私には頼もしく見えます」(タイさん)
 
ここに仲卸の“目利き”の存在価値があり、それこそが築地の文化だと言う。もう一つ、築地が培ってきたもの。それが、“横のつながり”である。
 
「水産仲卸のいちばん端っこにある店はなかなか売れないけど、奥がいちばん面積は広い。だから、不公平にならないよう、4年に1度、抽選で場所替えをやるんです。引っ越しのときには、各店舗でネズミ駆除をやり、ときには、その店に合った備品を置いていったり。そんな譲り合いの精神があるんです。移転が言われだしてからは、いずれいなくなるんだからということで場所替えの抽選も10年ほど行われていませんが……」(タイさん)
 
譲り合いは、互いを思いやる気持ちから生まれる。タイさんには、忘れられない出来事がある。
 
「もう20年以上前でしたが、親しい人が病気になって、私はすごく落ち込んでしまって。そのとき場外のスーパーを経営する奥さんに、『近所にはみんないるんだよ。なんかあったら、声をかけてね』と言ってもらえて。それで、すごく明るくなれたんです」(タイさん)
 
家族や一緒に働く人たちと半世紀以上を築地で過ごしてきたタイさんだからこそ、見えている景色がある。
 
「壁がないんです。ほら、うちの周囲を見てもわかりますが、お店が仕切られていなくてつながっている。ふだんから、『氷、ちょうだいね』とか、『もらうわよ』と声をかけながら、パッと手を伸ばして隣の青い包み紙を借りたりね」(タイさん)
 
その遠慮のなさも、先代の義母から自然に受け継いだ、ふだんのほどよい距離感があってこそ生きるもの。
 
「豊洲に行くと1軒ずつ、壁で仕切られた設計です。移転で、単に壁ができるだけではなく、それは綿々と受け継がれてきた、築地の文化がなくなってしまうことなんです。そのよさも小池都知事にお伝えしていきたいですね」(タイさん)