越前屋俵太

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80年代、類を見ない切り口でテレビ業界に新風を吹かした越前屋俵太(55)。常識はずれの演出で注目を集め、自身もタレントとして活躍の場を広げていった越前屋氏のバブル前夜の記憶とは? ユニークな発想と多彩な才能で時代を駆け抜けた寵児が今、改めて振り返る!

――関西出身の越前屋さんにとっての80年代の印象的な記憶はなんですか?

越前屋:1980年は僕が関西大学に入学した年で、1983年には、まだ大学生であったにもかかわらず、すでにテレビに出てました。道端で出会い頭にシャンプーしたり、たまたま見つけたモヒカンの兄ちゃんの頭で書道したりとか、もうメチャクチャしてました。

 どっちかといえば、テレビデビューする前の方がよく遊んでましたね。当然おカネもなかったんで、ディスコのなかに入らずに店の前で女のコを出待ちしてナンパをしてました。ストリートファイター系でしたね。だからデートはしてなかったです。だってそれ以前の問題で苦戦していましたから(笑)。

――当時の遊び場として、印象に残っているのは?

越前屋:大阪はマハラジャが全盛で、テレビに出るようになってからは、顔パスで入って、よく遊んでました。東京から村上里佳子ちゃんとかもよく来てましたね。ディスコには必ずVIPルームといわれる芸能人やお金持ちしか入れない特別室があって、ガラス張りで中が見えるようになってました。今、思うと見せ物みたいでとても恥ずかしいんですけど、当時はみんなVIPルームに入りたくて必死でした。ディスコに行くと真っ先にVIPルームに有名人が来てないかどうかチェックしてました。

 あるとき、すごくブサイクな女のコに囲まれてうれしそうにしている人がいるなと思ってみたら、嘉門達夫さんだった(笑)。まだ若手だったころのダウンタウンの松本(人志)君と今田(耕司)君が向こうから挨拶に来てくれたりとか、本当にあのころはみんなディスコにいたんですよ。毎晩、いつもキレイな本気モデルのお姉さんを連れてくる人がいました。その人もモデルっぽくて、おしゃれで、いつも斜め45度上を見て歩いてるような人でしたが、ある日テレビを見てたら、彼が出ててビックリ。あのウォーキングのデューク更家さんでした。

――そのころの大阪の街の雰囲気は、今と違いますか?

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越前屋:当時は、なんか大阪の南は二分されていたような気がします。アルマーニ、ベルサーチ、ジャンフランコフェレ、俗にいうイタリアンカジュアルに身をつつんでマハラジャのVIPルームにいる人たち、デザイナーズブランドの山本耀司の「Y’s」とか、川久保玲の「コムデギャルソン」に身をつつんで、「葡萄屋」っていうディスコにいる人たち。葡萄屋では、ショーケンの「ぐでんぐでん」でみんな踊って、文字どおり全員ぐでんぐでんになってました。

 ディスコで朝まで遊んで、そのまま神戸の須磨浦海岸まで行って、ビーチで焼いてましたね。そこに行けば、必ずいい女がいた(笑)。大阪のディスコで遊んでいても、京都のディスコが美しいって聞くとそっちに行くし、またそこで、神戸のディスコにかわいいコがいるって聞くと、そっちにも行くし。もう深夜の三都物語でした。で、朝は須磨。当時の僕らの必殺ゴールデンパターンでした。

◆当時の夢は「フェリスに通うコと付き合うこと」

――学生時代からすでに東京と大阪を頻繁に行き来されていたかと思います。そのとき、東京と大阪の若者事情で「ここが違う」と感じた点はありましたか?

越前屋:東京はどこまでいっても上っ面という感じがしてました。例えば、食事をするにしても、女のコを誘ってイタリアンのオシャレな店には行くんだけど、会話はつまらない。大阪は「腹、減ったからお好み焼きでも食いにいこか?」っていう感じで、お好み焼き屋のおばちゃんに、「勝手にひっくり返したらあかん!」とか「コテで上から押さえつけたらあかん!」とか突っ込まれながら、それでもなんとかして女のコを笑わすぞ、という気持ちだけはみんな持ってました。

 でも、なにかと否定的だった東京でしたが、東京の女のコにだけはずっと憧れてましたね。当時は、フェリス女学院の女のコと付き合うのが夢でした。名前からして美しい! だってフェリスですもの! 関西は京女に華頂に梅花に橘。まるで京料理のコース名です。

――関西での「タレント」のステイタスは、東京とはどれほど違ったのでしょうか?

越前屋:今も昔もとりあえず関西では面白くないとモテません。子供のころから、みんな鍛えられている。だからテレビに出てない人でも、そこそこ面白い人は街のあちこちにいた。僕もたぶんその1人だったと思う。一般人でもみんな我こそが面白いと思っているわけだから、テレビに出てる関西のタレントさんは笑いのレベルはともかく高かった。

 東京はどちらかというと、そんなに面白くなくてもなんか、そういう流れに乗ると、なんとなくタレントさんになれるような感じでした。東京の知り合いの女のコは、大阪に遊びに来たときに環状線に乗ってるお客さん同士の会話を聞いて、大阪人は全員漫才師だと思ったらしいです。

――越前屋さん自身は、バブル前夜の80年代をどのように過ごしてましたか?

越前屋:なんとなくカネがなかった時代でしたが、毎日が面白かった。成功したお金持ちの大人は結局、高級車に乗るか、いい服を着るか、美味いもんを食うか、大きな家を建てるか、所詮そんなもんです。大してパターンはない。

 それに比べて、貧乏な若者はいろんなバリエーションがありましたからね。これからなにかやりたいエネルギーを持った若者がいっぱいいた。カネはなかったけど、みんな夢は持っていたような気がします。バブルってよかったよねっていうけど、それは物質的な話です。

 そうじゃなくて、僕は精神がバブってた。なんでもできるような気がしてました。だって、デビュー当時、路上で街行く人の頭をシャンプーしてたわけですから(笑)。カネよりも志があった時代というか。芸人さんに例えると、売れてからのほうがカネになるけど、売れる前が一番面白かったみたいな。そういう感じですね。お金持ちは本当につまらないですよ。

【越前屋俵太】
1961年、京都府生まれ。関西大学社会学部在学中にアルバイトとしてテレビ番組作りに参加、深夜番組企画の企画会議にて街中で一般人を強引に巻き込むライブパフォーマンス企画を提案する。その後は『笑ってる場合ですよ!』や『探偵!ナイトスクープ』などに出演。タレント業のほか、プロデューサー、演出家、書家、大学講師、デザイナーとさまざまな活動を行う。近著『想定外を楽しむ方法』が好評発売中
@echizenya_hyota

文/山田ゴメス、写真/産経新聞社