それで、ブラジルで手術を受けたいとお願いしたら『自分のお金で行け』だって。ひどいよ。本当は契約書にブラジルまでのチケット2枚と書いてあったんだけど……、いまさら言ってもしょうがない。清水での5年間は、本当にいろんなことがあった。話し始めたら朝までかかっちゃうよ(笑)。結局、運が悪かった。精一杯頑張ったけど、タイミングがすべて悪かった。それだけ」
 
 97年、コンディションが戻らずに引退した。怪我に泣き、リハビリに耐えるのも限界。ラ・コルーニャ(スペイン)への移籍話は立ち消え、日本代表入りの夢も叶わなかった。そして何よりも、信頼していた人の裏切りに遭い深く傷ついた。お金にしか興味がないと思われる大人たちの姿に、ひどく失望した。
「もう2度とサッカーには関わらない。そう思ったんです」
 
 97年、清水市内にオープンしたレストラン「バナナシュート」は、繁盛した。腕のいい料理人を雇い、自身が深夜まで勉強して身につけた豊富なカクテルや丁寧な接客が話題を呼んだ。
 
 先輩のラモス瑠偉、後輩の三都主アレサンドロなど、多くの仲間が訪れてくれた。一家の長として、愛する妻とふたりの子どもを食べさせるために、寝る間も惜しんで働いた。借金した開業資金は3年で返済できたという。
 
 それでも5年、6年と歳月が経つと、サッカーのことばかり考えている自分に気づいた。消し去ったはずの記憶、ピッチで感じた喜びや充実感が甦ってきた。もう一度あの舞台に立ちたい――。その思いを封じることはできなかった。
 
 2006年、店を畳んでサッカーの現場に復帰した。現在の肩書きは、静岡県沼津市にある製造業、株式会社イカイサッカー部のテクニカルディレクター。名刺には監督・コーチの文字も記されている。
 
 とはいえ、現在サッカー部は休部状態。実質フリーの立場にある。信頼できる伊海剛志社長は「いい話が来て、あなたが幸せになれるなら、それでいい」と言ってくれている。本人は「華やかなパラダイスは望んでいない。監督でもコーチでも、フロントでもスカウトでもいい。サッカーに関われる現場があればトライしたい」と語り、オファーを待つ。やっぱり、自分にはサッカーしかない。
 
「久しぶりの現場は本当に楽しかった。コックさんがいないと何もできないレストランと違って、サッカーなら自分ひとりで頑張れる。GKコーチがいなくても、フィジカルコーチがいなくても、選手を指導して、チームを作ることができる。大変だけどやり甲斐があるし、それに替わる仕事はない。サッカーが一番だって分かったんです」
 
 強みは多い。プレーヤーとしての経験はもちろん、ブラジルのプロ指導者ライセンス、日本のA級ライセンスも持っている。通訳の要らない流暢な日本語を話し、ブラジルとの強固なネットワークもある。元ブラジル代表監督のドゥンガやマノ・メネゼスとは、直接電話できる仲だ。コーチの勉強をしていたサンパウロでは、カゼミーロ(R・マドリー)、オスカル(上海上港)といった選手たちも指導。どういった選手が世界で成功するのか、その眼にしっかりと焼きついている。
 日本とブラジルの架け橋となり、サッカー界に貢献できる。そんな自負がある。
 
 引退の引き金になった怪我は、ひとつだけ幸運をもたらしてくれた。結婚27年目となる妻・摩紀さんとの交際は、怪我のお見舞いがきっかけだ。浜松市内の病院に入院して孤独と戦っていた青年に、お弁当を作り、髪の毛を洗い、洗濯してくれたのが摩紀さんだった。

「彼女がいなかったら、日本で幸せにはなれなかった」と感謝している妻、そして彼女と共通の宝物であるふたりの子どもたちのためにも、「もう1回、ピッチで花を咲かせたい」。それが、三渡洲アデミールの現在の夢である。
 
取材・文:粕川哲男(フリーライター)

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