純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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イスラム黄金時代

 中世ヨーロッパのカトリック・キリスト教では、被造物で半可知の人間ごときがものを考えることこそ「原罪」(本質的な悪)とされ、なにごとも教会にお伺いを立てるべきとされた。そのそも、この世はエデンの楽園から追放された呪われた地であり、ただ愚直・寛容・奉仕のみで教会に従うことが求められ、政治社会的にも、都市と都市は分断され、ただ教会の神聖管理でのみ、かろうじてヨーロッパとしての統一性を保っていた。ここでは、恐るべき凡庸な停滞、永劫の毎日が反復するのみ。騎士の子は騎士、農民の子は農民。それは、神の定めた摂理とされた。これが、ヨーロッパの中世暗黒時代。

 そのころ、中東では種々雑多な土俗宗教が町ごとにあった。とくにメッカは、隊商貿易の中心地として、周辺諸都市の神像三百体以上を奪い集め、これらをまとめて祭ることで、神像を奪われた都市の人々が訪れる一大巡礼地としても繁栄していた。この街の実直な商人モハメッドは、どういうわけかキリスト教にかぶれ、そのうち神の言葉を直接に聞くことになる。

 彼によれば、というより、彼が声を聞いたという唯一神によれば、キリスト教はいまいちだったそうだ。だから、その修正として彼に新たな教え、『コーラン』を授けた。まずキリスト教が根本的にまちがっているのは、人間の原罪。そんなものは無い、というのがイスラム教。たしかにアダムとイヴは神の禁を破って知恵の実を食べる、などということをやらかしたが、神は太っぱら、そんなちまいことをいつまでもウジウジと根に持ったりしていないし、追放も一時の話。つまり、この世こそが神に祝福されたエデンそのものであり、すべては神から人間への贈り物。人間は、それを楽しむべきだ、とされる。

 逆に、人間が「創った」もの、芸術や賭博、酒、豚(人工家畜)などは、厳しく禁じられる。そんなまがいものにうつつを抜かす暇があったら、神が真に創った世界こそを余すこと無く楽しめ、そのために人間は知恵を使え、とされる。たとえば、キリスト教では、砂漠で水を求めて、掘った井戸から飲めもしないベトベトしたタールが湧き出てきて、ときに火を吹くなら、それは悪魔の呪い。ところが、イスラム教では、そんなものでも神がくれた以上は、なにかありがたいもの。それがまさに石油。石油を売れば、世界中のミネラルウォーターをいくらでも買うことができる。

 キリスト教では、キリスト教以前のものを、あれもこれも邪教に汚れている、として遺棄したが、イスラムの連中は、この世のありとあらゆるものが神の贈り物であるとして、古今の知識、世界の文物をことごとく集める。おかげで、かれらは数学、幾何学、化学、建築学、医学、天文学に精通し、紙や羅針盤、火薬という三大発明から、ガラス、綿花、綿織物、風車、外洋帆船、コロン、消臭剤、炭酸水、香辛料、柑橘類、モモ類、時計、カメラ、飛行機まで、現代文明の元となるもののほとんどすべてを生み出していった。


運べる教会

 イスラム教発展の最大の鍵は、『コーラン』。これが印刷され、また、それを読むためにアラビア語が共通語とされた。『コーラン』は、いわば「運べる教会」であり、建物としての教会も、常駐する神父も必要が無かった。それを読めば、どうすべきか、ぜんぶ書いてある。つまり、教会依存の定集住を強いるキリスト教を、遊牧民だったモーゼ時代のユダヤ教の律法聖書のスタイルに戻した。

 『コーラン』は、生活のマニュアル。その中でも特徴的なのが、偶像崇拝と太陽崇拝の徹底的な禁止。人間が「創った」偶像は論外。また、唯一神は、ありとあらゆるところに、ありとあらゆる時に臨在しているのであり、太陽のように出たり引っ込んだりしない。しかし、これは、ありとあらゆるところで、ありとあらゆる時に礼拝しないといけない、ということでもある。イスラムとは、全面的に帰依すること。世界のどこにいても、一日五回の礼拝で帰依を立証しないといけない。

 イスラムは太陽を嫌い、月齢、太陰暦を使う。このため、月の季節が年によってズレてくる。ところが、その一方、じつは礼拝の時刻は、太陽を基準に決められている。現代でこそ、きっちりと時刻が決められているが、もとはけっこうアバウトだった。最初の礼拝は、黎明、次は太陽正中の後、3回目は太陽が黄色くなるころまで、4回目は日没後、そして5回目は太陽の赤い残光が消えた後。2017年7月20日の東京の場合、02:55, 11:46, 03:35, 18:55, 20:25。これに従うと、言わばお豆腐屋さんのような生活になる。三時前に起きて、昼まで働き、ちょっと昼寝。日が陰ってから、あれこれ。夕飯の前にお祈りして、寝る前にもお祈り。日が出てからしか起きて来ない異教徒たちが、日中に昼寝をしているかれらを見て、働かない、などと言うのは、とんだ的外れ。

 そもそも礼拝には、徹底的な清浄が求められる。だから、各礼拝より前に、手を三度、足を三度洗い、ウガイも三度、髪や耳の穴まできれいにしないといけない。そんな早く起きられないよ、と泣きごとを言ったって、町中に「アザーン」という礼拝招集の呼びかけが大音量で流れるのだから、いやでも目が覚める。行かないと、世間体も悪い。とはいえ、このアザーンの呼びかけは、べつに無理強いをするものではない。成功したければ礼拝においで、というもの。したくなければ、べつにいいよ、ユダヤ教でも、キリスト教でも、好きにすれば、と突っ放している。

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 しかし、実際、あの暑い地域で、朝の三時前から起きて働けば、そりゃ仕事も人生もかならず成功する。なにしろ早寝早起、清潔第一で健康確実、きちんと礼拝に行けば、顔も広まり、話も入り、商売繁盛。おまけに、賭事も、酒もやらない。とはいえ、清貧なんていうしみったれたことはしない。ぱぁーっと使って人生を楽しむ。なにしろ、この世は神の贈り物、楽園なのだ。当初は税金も無しで、稼いだ一割を気前よく、世のため、人のために投げ出す。でも、これは見栄ではない。これは、自分が神さまに愛されている証拠。うらやましいなら、きみもちゃんと帰依したら、というところ。


ウンマ(共同体)主義

 礼拝は集まってやった方がいい、とはされるが、もともと『コーラン』さえあれば、一人でどこでも信仰できる。神父に事ごとにお伺いを立てる必要も無いし、そもそも神父なんていない。それで、あっという間に広まって、アフリカ西岸から、東はインドネシアまで、北はカザフスタンまで。実際、この世は呪われている、我々は罪人だ、悔い改めろ、なんていう陰鬱なキリスト教より、この世は楽園、感謝して楽しめ、帰依すれば成功するぞ、というのだから、はるかにハッピー。初対面でも、みんなアラビア語を話し、イスラム法で取引をできる。社会を表面的に見て、女性に対して差別的だ、という人もいるが、男の甲斐性の方がじつは義務が重い。ずばぬけた女性科学者なども早くから輩出している。

 けれど、『コーラン』に書いてない新しい物事に対してはどうするのか。この問題は、モハメッドの後、すぐに表面化する。一部の人々(「シーア派」=イラン)は、モハメッドの直系親族のみを指導者とし、保守ゴリゴリになったが、他の地方は、「スンニ(慣例)派」としてイスラム共同体「ウンマ」の合意を重視した。みんなが合意するなら、そこには神の御意志が宿っている、とされる。ああだ、こうだ、と議論するが、その結果、穏当なところに落ち着く。

 では、なぜこれほど強大だったイスラムの黄金時代が終わって、列強の植民地として喰い荒らされたのか。十字軍のときもそうだったが、どうするのか、対応の合意が形成されるのに、やたら時間がかかるのだ。教皇の命令一つで全軍が一斉に攻めかかるキリスト教国に初動では勝てない。しかし、もともと首都も首長も無く、国際的な動員力もあり、長期的にはかならず復興してくる。その後の帝国主義の植民地化においては国境で共同体を分断され、その後を西欧式の独裁国家が引き継いだが、それもどこも壊れ、遠からず、一つの流動的な巨大文化圏に戻っていくだろう。

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 しかし、こんな温和そうなイスラムから、なぜ過激派が現れるのか。これは、スンニ派の弱点でもある。世界中から奇妙な連中が寄り集まって勝手なウンマ(共同体)を作ってしまうと、連中は仲間内だけで異常な合意を形成してしまう。にもかかわらず、自分たちの合意こそ、神の御意志だ、と独善的に思い上がる。他のウンマの宗教家たちが批判したって、聞く耳を持たないし、それどころか、おまえらの方がまちがっている、おれたちに従え、とやりかえす。さらに面倒なことに、こういう共同体が昔と違って集住しておらず、世界に散ってネットでつながっている。だから、その「拠点」の一つを潰したところで、どうにもならない。

 早寝早起のイスラムの連中は、怠惰な我々とは生活時間からして違う。宗教観も生活観も違う。たとえば、偶像崇拝を嫌うかれらは、絶対に京都なんか観光に行かない。パチンコはもちろん、宝くじさえも、人間として軽蔑される。早寝で酒嫌いだから、醜悪な酔っ払いがウロウロいる夜の街なんて、論外。その一方、古い世代の縛りは弱まっており、宗教家がゲームを激烈に批判してもスマホにひそかにダウンロードしていたり、気づかないフリをして焼き鳥屋で豚バラを食べていたり。ただ、それはあくまで内々の話。たとえ連中の実際がかなりいい加減だったとしても、連中には連中の建前があり、かれらとつきあうとなれば、その建前をきちんと理解しておかないと、それを口実にこっちが一斉攻撃される危険性もある。

 くわえて、かれらはイスラムとして一つでありながら、その内部はウンマ(宗教共同体)として多様。なにがどの連中の逆鱗に触れるか、かんたんには予測できない。あるイスラム教徒が大丈夫としていても、別のウンマのイスラム教徒の怒りを買うかもしれない。所属が見えないから、よけいややこしい。いずれにせよ、なにかを保証してくれるローマ教皇のようなイスラムの代表者、絶対権威など、もともと存在せず、存在しえないのだ。しかし、世界人口の四分の一近くを占め、今後、経済圏としても自立して大きく発展することはまちがいない。現実に同じ地球で暮らしている以上、好き嫌い抜きで、我々はかれらの存在、かれらの生活を理解しなければならない。


(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)

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