大西 洋●1955年、東京都生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、伊勢丹(現三越伊勢丹)に入社。紳士統括部長などを経て、2009年伊勢丹社長。11年三越伊勢丹社長。12年2月より三越伊勢丹HD社長。著書に『三越伊勢丹ブランド力の神髄』

写真拡大

■社員に直接メールし1対1で30分面談

4年ほど前、推薦する本を紹介するテレビ番組に出演したことがありました。そのとき私が持参したのが『禅が教えてくれる 美しい時間をつくる「所作」の智慧』(枡野俊明著)でした。

禅は規律や規範を重んじ、その教えは礼儀作法や人間力にも及びます。接客業と禅の教えは関連が深いのです。

たとえば、挨拶という言葉はもともと禅語だそうです。「挨」も「拶」も「押し合う」という意味を持ちます。禅僧がお互いに「禅問答」を繰り返すなかで、相手の悟りの境地の程度や心の成熟度、僧としての力量をはかりあうことが「挨拶」の原義だそうです。

単に声をかけあうだけではなく、相手に言葉を投げかけて反応を確かめ、互いの胸のうちを探る。まさしくコミュニケーションの大切さをこの挨拶という言葉は表しています。

私は普段何もなければ、毎週水曜日と土曜日は必ず店頭に立つようにしています。朝行くと必ず、スタイリスト(販売員)に「おはようございます」と挨拶をします。お客様に挨拶するのは当たり前ですが、仲間への挨拶も重要です。そこから会話が始まり、会話が重なって対話となり、コミュニケーションが成立するからです。よいコミュニケーションがないところでは、よい職場も、よい接客もできません。

三越伊勢丹には現在1万2000名の社員が働いています。ホールディングスの社長といえば、社長室や会議室にとじこもり、役員や部長と話をしているイメージがあるかもしれませんが、私は違います。むしろ現場の社員と密にコミュニケーションを取ることを心がけています。

年2回の決算発表後に社員向けの説明会を毎回行い、出席した社員には最後に感想を書いてもらっています。たとえば、「今日は営業の話が多かったですが、もっと経営の話を聞きたかったです」とか、「いま進めている三越日本橋本店の再開発はこういう点が問題だ」とか。ユニークな意見や具体的な課題が書かれていたら、私がそれを見て直接本人にメールを送り、話を聞かせてもらうことにしています。突然、社長に呼び出されると社員はびっくりしますよ。「私、何か悪いことしましたか」って(笑)。今回でいうと1人30分ずつ、10名と話をしました。面と向かって話をすると、役員会や部長会では聞くことのできない生の情報を得ることができます。コミュニケーションはトップダウンだけではなく、ボトムアップでもあるべきです。

私が大切にしている言葉は論語にもあります。

「夫子の道は忠恕のみ」

先生が大切にされているのは、まごころと思いやり、それだけだ、と弟子が孔子の心の内を慮って口にした言葉です。

忠恕を私なりに解釈すると、相手の立場を考え、思いやりを持って接するということです。挨拶が言語によるコミュニケーションの大切さを表す言葉だとしたら、それ以前の、相手に配慮する気働きの大切さを示した言葉といっていいでしょう。

自分もかくありたいと願っている私は、そうした気働きができる人間が大好きです。逆にいえば、他人の気持ちがわからない、事なかれ主義者は大嫌いです。

■家内との出会いはオロナミンC

気働きといえば、つい最近、こういうことがありました。

三越伊勢丹では上得意のお客様をホテルにお呼びして新しい商品をご覧いただきながらもてなす会を年に2回開催しています。つい先日もありました。

そこでの私の役割はお客様へのご挨拶です。実はその日は朝から体調が悪く、昼近くになると全身の力が抜け、立っていられなくなってしまいました。そのような状態でも夜にはお客様との大切な懇親会があるので、帰るわけにもいきません。

まず病院に行き、5時間ほど点滴を打ってもらい、再びホテルに戻りました。次の私の役割は、夜6時から始まる懇親会での冒頭スピーチでした。

6時少し前、ふらふらになりながらも壇上で準備していると、旧知のホテルスタッフの女性がやってきて、おしぼりと一緒に、オロナミンCを手渡してくれたんです。それもほかの人に気づかれないようさり気なく。ありがたくそれを飲むと、体に力が入り、無事スピーチをこなすことができました。

その後も2時間ほど懇親会は続き、私もまだ会場にいました。その間、そのスタッフはずっと私を見守ってくれていました。

一度、めまいがひどくなり、会場の外へ出たら「お休みになれるお部屋をご用意します」と私の後を追ってくるんです。いいです、と断ったら、ホールの脇の目立たない場所に椅子を持ってきてくれ、臨時の休息場をつくってくれた。そこで少し休んだら回復して、会場に戻ることができました。

そのとき、ふと若い頃のことが頭をよぎりました。仕事中に高熱を発したものの、店頭に立たなければならなかったとき、ある女性社員がオロナミンCと風邪薬を、まさしくホテルの女性スタッフと同じようにさり気なく持ってきてくれた。それが今の家内です。そのオロナミンCに参ってしまい、私は結婚したようなものです(笑)。

私は株式会社の社長ですから、思いやりを発揮すべき「忠恕」の対象は、まずはお客様、そして株主、さらに従業員ということになります。そのための王道はおもてなしの質を高めることです。質が上がれば、多くのお客様が頻繁に訪れてくれて収益が上がり、株価も高くなるという理屈です。

現場力を上げる一番の近道はスタイリストのモチベーションをアップさせることです。そのために取り組んできたのが店舗の営業時間の短縮です。これまでの10時間もしくは9時間半営業を9時間にしたんです。すると、全員が「一直(いっちょく)(開店から閉店まで勤務すること)」で働けます。2016年4月からは伊勢丹新宿店と三越銀座店を除いたすべての店舗で実施することにしました。その結果、お客様がいつお見えになっても、馴染みのスタイリストが対応できるようになりました。

一方のスタイリストには限られた時間で最高のおもてなしをしようという心が生まれ、目の前の仕事以外の創造的なことを考える時間も生まれます。もちろん、家事や育児、趣味に役立てる人もいるでしょう。

営業時間を短くすれば売り上げは当然下がります。でも、それは一時的なことです。お客様に最高のおもてなしを提供できるよう、社員が働きやすい環境をつくること。その環境づくりに最も欠かせないのが「挨拶」の精神なのです。

(三越伊勢丹HD元社長 大西 洋 構成=荻野進介 撮影=市来朋久)