夏の光を浴びて輝く、束の間の出会いと別れ 菊地健雄監督作『ハローグッバイ』が切り取った一瞬

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 ふたりの女子高生が、それぞれ別々の道を通って同じ学校へ向かう。やがて彼女たちが学校に着いたとき、この映画は極めて慎ましやかな手振りでそのタイトルを観客に示すのだが、走り書きのような筆跡で校舎の壁に浮かび上がる文字は、『Hello, Goodbye』という英語表記と、そこにこれまた慎ましく添えられた小さな『ハローグッバイ』というカタカナ表記だ。この映画が描くのは、この言葉通りの、矢継ぎ早に訪れる出会いと別れのあいだのほんのわずかな時間に過ぎない。英語ならばコンマひとつぶんの、カタカナならばもはやなにもないように見える、そんな些細で見落としてしまいそうな「ハロー」と「グッバイ」のあいだの束の間のことだけを、この映画は描いている。

 品行方正で成績優秀、さらには家もお金持ちながら、言いようのない孤独に囚われて万引きを繰り返す葵(久保田紗友)。いつも友達に囲まれてスクールカーストの上位にいるようでありながら、自分が妊娠したかもしれないことを本音で相談できる相手が見つからないはづき(萩原みのり)。そんな対照的なふたりが偶然出会ってしまう物語だととりあえずまとめてみることはできる。あるいは、彼女たちを結びつけるのは、痴呆が進行し日々の営みや家族の歴史を忘れていきながらも、それでもなお耳に残るメロディと分かち難く結びついた遠い昔の恋だけを忘れられずにいる悦子(もたいまさこ)なのだととりあえず説明することもできる。この映画は、それぞれに違ったかたちで孤独を抱えた三人の女性が、人生のほんの束の間一緒に過ごす夏の短い時間の物語なのだと。だがそんなふうな説明で語れるのは、上映時間が80分という心地よい小ささをもったこの作品の魅力のうちのごくごく些細な部分に過ぎない気もしてしまう。

 いやむしろ、そうした物語やキャラクターなどといった事柄は、この作品を満たす魅力を語るには大き過ぎるのだ、と言ったほうが正しいのかもしれない。ほんの些細な事柄、なんでもないような小さな事物、なにげない瞬間。タイトルの中の、「ハロー」と「グッバイ」のあいだの小さなコンマ(あるいはなにもないように見えるなにか)に似た、そうした見落としてもおかしくないものたちこそが『ハローグッバイ』という映画の魅力の源泉なのである。

 たとえば、この作品の冒頭ではづきたちに学級日誌を職員室に持っていくように押し付けられた葵が教室に戻ってくる場面。クラスメイトたちは次の体育の授業に出ていて、教室にはだれもいない。そこで葵は、まるでなんでもないことのように、不在のクラスメイトたちの荷物の中から、小さなものを盗み出し始める。やや不機嫌な顔をしているとはいえ、それは自分に面倒なことを押しつけるスクールカースト内の権力構造に対する復讐というような大それた素ぶりではなく、ただ本当になんでもないことのように、彼女はペンやペンダントミラーやはづきの妊娠検査薬といったつまらないものを盗み出す。盗まれた当の本人ですら盗まれたことに気づきもしないような、本当につまらないものを。

 やがてそれらつまらない盗品たちは、理科室に面した花壇の土の中に、葵の手によって埋められる。この場面は、ちょうどたまたま同じタイミングで、カーテンを閉め切った理科室の中でなされているはづきと元カレの密談が、それを盗み聞きする葵にはづきと妊娠検査薬との関係性を理解させるにいたる、というプロット上の展開点ではある。それだけならばそれだけのことだと、この後に待ち受ける、葵と悦子の衝突という偶然の出会いと、その場所にはづきがたまたま居合わせるという、偶然という名の脚本上の必然を用意するだけの、なんということのないささやかな場面だと、言い切ってしまうこともできる。だが、『ハローグッバイ』という映画において人々を結びつけるのは、こうした本当になんでもないような小さなこと、誰もあえて目を止めたりしないようなつまらないものなのだ。このとき花壇に埋められたペンダントミラー、100均で売ってるような安っぽいその鏡が発する、ささやかに自らの存在を主張する反射光が理科室の天井でチラチラと揺らめいていることに、気怠い生物の授業中に気づくのははづきたったひとりなのだ。

 この作品の中で様々な出来事がおこる中心的な舞台である悦子の家の前の坂道の階段だが、それをのぼりきったところにある電柱には「新町五丁目」という掲示が掛けられている。日本中にどれだけあるかわからないほどありふれた、新しい町という名前の町でこの映画は展開する。新しいといっても女子高生の彼女たちからしたらはるかに古いこの町。古いといっても、「昔は自分たちの気持ちだけじゃどうにもならないことがあったのよ」と語られるほどには古くはないこの町。悦子の手紙を届けるべき家に届けた三人は、この映画のメインヴィジュアルにも使われているあの画で、丘の下に広がる街並みを並んで見下ろす。もちろん新町からバスでやってきた彼女らが見下ろしているのは彼女たちの住む新町ではないが、同じようにありふれた、同じようにその存在を見落としてしまいそうになりがちなほどささやかな人々の日々の営みが行われる場所だ。その場所を彼女たちは二度と帰らないなにかのように見つめる。

 葵の家のゴミ箱いっぱいに詰まったとるに足らない万引きされた商品、花壇に埋められた持ち主さえも紛失に気づかない小さなものたち、日本中にどれだけあるかわからないこの「新しい町」。そんななんでもないようなものたちが、「ハロー」と「グッバイ」のあいだのほんの一瞬だけ、静かに輝いている。だから、ほんの数シーンしか登場しない悦子の娘(渡辺真起子)が母親の言葉に喉を詰まらせる場面に、涙を堪えることができない。だから、翌日からも同じように顔を合わせるにも関わらず、決してこの瞬間とは同じように出会うことができないふたりの少女の別れの場面に、涙を堪えることができない。劇中で決して誰からもその存在を口にされることないあの安っぽい鏡の光のように、ささやかでつまらないとるに足らない小さなものたちが、夏の光を浴びてほんの束の間、輝いている。(結城秀勇)