ベイスターズが負けて息子は泣いた

 うだるような暑さと人いきれの中、私は1歳の赤ん坊を抱え、小学生の手を引き長い長い階段を昇っていた。汗が目に沁みても、拭うこともできない。それでも私は何かから逃れるように、いや何かを求めるように、固いコンクリートを一段ずつ踏みしめていた。私はなぜ今ここにいるんだろう、何をしようとしてるんだろう。この先に一体何があるんだろう。

「あぁあ……」リビングから戻るなり布団に倒れ込んだ長男。「エレラ打たれたの?」「うん」「サヨナラ?」「うん」「そうか」。小学5年生。放課後はグラウンドで野球、家に帰ればテレビで野球、土日は少年野球、そんなに野球が好きなのに、幸か不幸か彼もまたいつのまにかベイスターズファンになっていた。

 2015年のベイスターズ。5月は首位だった……気がする。しかし交流戦は3勝14敗という、相撲だったら場所中休場的な数字を叩き出し、ずるずると順位を下げていた。あぁあれは7月30日。思い出すのも恐ろしい、京セラドームでの対巨人戦を私は息子とテレビで見ていた。ルーキーの石田が6回を0点に抑え、長田、平田、大原とあえぐようにつないでいた。エース菅野に手も足も出ないまま迎えた8回裏、エレラがつかまった。またつかまった。その前日は10回裏に亀井にサヨナラ2ランを打たれたエレラ。京セラドームとエレラ、悪魔に魅せられたエレラ。今日こそはと思っていたのに……。「ママ、いっくん(次男)寝かせてくるから」。それはテレビから離れる言い訳だった。エレラの深い悲しみを湛えたあの目を、私は直視できなかった。

 でもまだ京セラの神はベイスターズを見捨ててはいなかった。「けーじろーが打った!!」息子が大好きな松本(※好きな理由は応援歌がカッコイイから)が澤村から貴重な同点打を放ったらしい。「つっても同点でしょ。無理だよ」。わざと悲観したことを言う、悪いオールドファンの見本のような母。「俺は! 絶対に! あきらめないぞ!」まるで自分が試合に臨んでいるかのように、テレビの前で叫んでいた。たとえ10-0で負けていても、いつも息子はそうだった。

 そして、この日もベイスターズは京セラの神にほほ笑んではもらえなかった。前カードの阪神戦も負け越し、この日の負けで巨人戦は同一カード3連敗。最悪だ。いつのまにか次男は腕の中ですやすやと眠っていた。布団に倒れ込んだ息子の背中が小刻みに震えている。

「泣いてるの?」「……」「なんでよ?」「……だって……」

 ベイスターズが負けて、泣いているのだ。ビックリした。「ママ別にアンタが巨人ファンでも構わないよ」という私に「チャンテかっこいいから」という非常に平成生まれっぽい理由でわざわざこちらの世界にやってきた息子。いつも3回くらいで「今日はもうダメだな」と決めつける私に「ママは未来が分かるの!?」と食ってかかってくる息子。プロ野球という、ベイスターズという、このどうしようもなく自分ではどにもならない存在に対して、こんなに素直に感情をぶつけられるのか。私は、先回りして負けを覚悟して、ヘラヘラすることでここ何年間かやり過ごしてきた。泣いてる息子を見ていたら、とっくの昔に失くしたと思っていた「悔しい」という感情が、渇いた心に滲んできた。

私は今、やきゅうのみらいを連れている

 私の元に生まれてきてしまったばっかりに、ベイスターズファンという十字架を背負わされてる。小学生にして現実の壁を見せつけられている。敗者のメンタルという負の遺産を、この世代に引き継がせていいのか。親らしいことを何一つしてあげられていないこの子に、今私がすべきことは何なのか。顔をくしゃくしゃにして泣いている息子に私は言った。

「行こう、明日。ハマスタに行こう。勝つとこ見よう」。応援しても無駄なんて思わないで。行って、自分がここで応援してることをあいつらに分からせよう。「いっくんはどうするの?」「連れて行く」「でも……」「なによ」

「明日、マエケンだよ」

 傍から見たら、野球観戦に向かう幸せな親子に見えただろう。京浜東北線に揺られる、筒香Tシャツを着た1歳児とこれまた筒香Tシャツを着た小学5年生とその母親。しかし実際は、終戦直後生きるために買い出し列車に乗り込む親子連れのような殺気と悲壮感が、あのときはあったと思う。関内駅に到着、既に試合は始まっている。夕方だというのに、涼しい浜風は吹いてこない。ベビーカーを預けて、1歳児を抱っこした。急遽取ったチケットはハマスタ最上段に位置する「やきゅうみらいシート」あらため神奈川少年野球応援シート。そうだ、私は今、やきゅうのみらいを連れている。そしてこの子たちに見せるのだ。階段を上がった先にあるベイスターズの未来を。

 割れるような歓声が階段まで溢れてくる。どうか、どうかこの歓声が1塁側のものでありますように……。祈りながらくぐったゲートの先に見えた未来は、乙坂が梶谷が筒香がロペスが宮崎が倉本が、マエケンから初回4点もぎ取る、そんな光景だった。私は息子の汗ばんだ手をもう一度ぎゅっと握った。


青く染まった横浜スタジアムのスタンド ©時事通信社

 中学生になった息子は野球部に入って、相変わらず朝から晩まで野球をしている。1歳だった息子は3歳になり、最近筒香の応援歌がうたえるようになった。ベイスターズは……2015年にとんでもないことをやらかしつつも、それでもあの日見た未来がファンに確かな予感を与えてくれている。あの試合を息子は憶えているだろうか。ベイスターズが負けても、彼はもう泣かないけど。

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(西澤 千央)