中国人と接したことがある人は、人付き合いの距離感が日本よりも近いことに気付くことが多いのではないか。北京科技大学の範紫瑞さんは、そんな日中の微妙な距離感の違いについて、作文につづっている。資料写真。

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中国人と接したことがある人は、人付き合いの距離感が日本よりも近いことに気付くことが多いのではないか。北京科技大学の範紫瑞さんは、そんな日中の微妙な距離感の違いについて、作文に次のようにつづっている。

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日本語を勉強して二年になるが、日本人の友達がまだいない。いつも日本人の留学生と親友になって相互学習したいと思っている。これまでもいろいろな交流会に参加してきたが、不思議なことに、なかなか日本人と親しい友達になれなかった。どうしてなのだろうか。

交流会は盛り上がり、お互いに連絡先も交換して、相手の日本人も楽しそうに見えた。それなのに、どうして後で連絡すると、態度が急に冷たくなるのか。私が何か失礼なことをしてしまったのか。それとも、元々私のことが嫌いで友達になりたくないのか。留学生の態度の変化は私には理解できず、すごく悩んだ。

中国では距離感から美しさが生まれるという言葉がよく言われる。たとえば、山の景色を見る時、遠くから見れば、何と美しいことかと感じるが、本当に山に登って近くで見たら、死んだ木や汚いところもあってそんなに素敵ではない。人との付き合いも同じだ。日本人はそう思わないのだろうか。

そう言えば、確かに日本人は、会う時、または別れる時、ただお辞儀をして挨拶する。抱き合ったり体をなでたりする姿はなかなか見られない。それは日本人が外国人と付き合う時だけではなく、日本人の中にある暗黙のルールである。いつも情熱的な中国人と違って、彼らは微妙な距離感を保って慎重に付き合っている。

中国も日本も協調性を重んじる社会であるが、日本人は微妙な距離感を保つことを選ぶ。自分のある部分を隠して、最もよいところを人に見せるのに対して、中国人は何も隠さない。「私たちは親友よね。なぜその秘密を私に言ってくれないの。私のことを信頼していないの」。こういう思いを持っている中国人が結構多いと思う。特に中国の大学生の寮では、プライバシーを侵すことが起こりがちだ。侵された人は寮の平和な雰囲気を守るために、我慢するしかない。「親友」は元々気楽な存在なのに、重くなる。さらに、侵された人はまた侵す人になって、悪循環が続いていく。

交友関係において被害者であるとともに加害者である私は、改めて日本人と付き合う時の微妙な距離感を考えてみた。それは冷たいというより、むしろ日本人がお互いに尊重し合うことを大事にしていると言うほうがふさわしい。距離感があるからこそ、安全性が感じられる。近すぎる関係は両方に悪影響を与える。それを避けるために、お互いに尊敬する気持ちを持って付き合ったほうが楽ではないかと、今の私はこう思うようになった。

「人生かくも初見の如し」という詩句は清代の納蘭性徳という詩人が書いたものだ。人生の中で意中の人と初めて出会った時のような気持ちを持って人と付き合うべきだという意味として伝わっている。初めて出会った気持ちで相手の長所の方に注目して、相手の話に興味を持って聞いて、お互いに温まり合い、楽しみ合う。「初見」という言葉で距離感を強調する古人は、たぶん今の日本人と同じように、尊敬する気持ちを持って特別なやり方で友を大切にしていたのだろう。

昔「礼儀の国」と絶賛されていた中国は経済の高度成長にともなって、焦って目先のものだけを求めているのかもしれない。「君子の交わりは淡きこと水の如し」というような境地に戻るために、もう一度、努力する必要がある。人と人のつながりを十分楽しむのは人生の喜びの一つであるが、微妙な距離を保ったとしても、親友になれないわけはないのだと思う。(編集/北田)

※本文は、第十一回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集「なんでそうなるの?中国の若者は日本のココが理解できない」(段躍中編、日本僑報社、2015年)より、範紫瑞さん(北京科技大学)の作品「微妙な距離感」を編集したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。