人より変わっていると思われたい。このSNS華やかなりし昨今、それは誰しもが抱く甘く危険な欲望です。次から次へと流れていく情報に独自のスパイスを加えてオピニオン的なものを仕立て上げ、自らがコンテンツになったら勝ち……インターネットはそんな戦いをずっと繰り広げている気がします。巷では承認欲求なんて言われますけど、そんな簡単なものではない。「私はこういうことを言うべき」「こういう姿を求められている」と病的に思い込み、なるべく広くご期待に沿おうとしてしまう。そしていつしか周りから求められている姿こそが、自分のあるべき形なのだと信じ込む。これがヒトのコンテンツ化なんだと思います。

軽やかな反射で言葉を選ぶ北条さん

 さて、先日こんな記事を目にしました。ライターである北条かや氏がプロインタビュアーの吉田豪氏にインタビュー(デイリーニュースオンライン「吉田豪インタビュー企画」6月30日〜7月2日公開)を受けたもの。北条かや氏といえば……この人も「知ってる人は知ってるけど、知らない人はビタイチ知らない」ジャンルの方だと思うので説明が難しいですね。自らキャバ嬢となって社会学的見地からキャバクラを分析した(ウィキペディアより)『キャバ嬢の社会学』を皮切りに『整形した女は幸せになっているのか』『本当は結婚したくないのだ症候群』『こじらせ女子の日常』などを出版。タイトルを見ただけでも分かりますように、その時その時に流行っているものをちゃっかり拝借して自分のものにしてしまう、コピペ世代の申し子のようなお方です。


コピペ世代の申し子・北条かや氏のブログ

 おそらくこの方は「〇〇っぽい」ものがたまらなく好きなんだと思います。ブログタイトル『コスプレで女やってますけど』も然り。「コスプレ」という言葉を社会への擬態というモチーフで使うの、「プロレス的な」と同じくらい流行りましたからね。この方がもう少し社会学的に物事を考える方なら、多くの女性が「女」をコスプレのようには自由に脱ぎ着できないことに悩み苦しんでるという当たり前の現実に行きあたるんでしょうが、たぶん「これ、社会学っぽい」「社会に物申してるっぽい」という軽やかな反射で使ってるっぽいので、ま、それは過ぎた望みというべきでしょう。

炎上にインスパイアされた本

 現在炎上ライターの名をほしいままにしている北条氏ですが、ここ最近で一番激しく燃え上がったのは最新作『インターネットで死ぬということ』ではないでしょうか。2016年に出版した『こじらせ女子の日常』のタイトルに端を発した「こじらせ女子」を巡る論争……論争というか、受けた批判に対して北条氏が一方的に「好きな書き手さんに誤解されている」「タイトルに関してはかなり反論しましたが通らなかった」「死んでお詫びしようとおもいましたが死ねませんでした」などの妄言を繰り広げ、挙句の果てにこの騒動にインスパイアされたとされる書籍を出版……そのタイトルが『インターネットで死ぬということ』。このあまりにもなタイトルに、関係者の怒りは一周まわって絶望に変わったような、そんな空気を憶えています。

 北条氏はこの中で「インターネットで死んだ」という自分の、生い立ちやその歪んだ思考スタイルなどを吐露していますが、私の個人的な考えでは「この人全然死んでねぇじゃん」と思いました、正直なところ。まだインターネットでの鮮度を保っていたというか。インターネットでの鮮度というのは、幸か不幸かその人が自分に向けられる批判に対して無自覚であり、無神経であり、無頓着であることに影響を受けるものだと思うんですよ。その点でこの本はただただ彼女自身の生命線である「人より変わった自分」を演出するための、過去の奇行やみじめな男性関係や歪んだ特権意識のアピールに余念がなく、「自分ではそんなこと思っていないのに人を怒らせてしまう私」のアリバイとしては完璧なものでした。

「吉田豪、やっぱスゲェ」


©平松市聖/文藝春秋

 むしろ私が「この人はもしかしてインターネットで死んでしまったのかもしれない」と思ったのはこの吉田豪氏によるインタビューのほうなんです。

 かなり長いインタビューではありますが、読んだ方の感想を見てみますと「吉田豪やっぱスゲェ」がざっと8割、意外にも後の2割が「北条かやのこと少し好きになったかも」「自分にも似たとこあるなと思った」など北条氏に対するポジティブなものでした。だったらいいじゃん? って思うでしょ。でもこの流れって、人間コンテンツの衰退でもあるんですよ。吉田氏は決して善悪のジャッジはせず、淡々と、しかし確実に北条氏の内面に切り込んでいく。それはこの人を人間コンテンツたらしめていた「違和感」を読者に分かりやすく翻訳することであり、読後のスッキリ感や共感と引き換えに、この「なんだかよくわからんもの」に抱えていた興味を失っていく。それこそネットでの「死」を意味するんじゃないでしょうか。

 後先考えずに流行りものに飛びつき、社会学という権威づけで割とやりたい放題やる。いざとなったら出自やメンタルの不調で逃げる。そんな北条氏をコンテンツたらしめるのは「共感」ではなく「野次馬的興味」ですもん。いいインタビューというのは、時におそろしい凶器にもなりうるんだなと、「変わってる私」をアピールしようと臨んだのでしょうに、何たる皮肉・・・・・・と思った次第です。でもそれが面白いものを書こうと腐心するのではなく、コンテンツとしての自分自身を売り物にしようとするライターの、成れの果てだとも思うのです。

(西澤 千央)