哲学――知の根幹をなす学問。難解であるにもかかわらず、戦後から現在に至るまで「哲学ブーム」なるものが繰り返されてきた。そして今、世界が混沌としている現代だからこそ、新たな哲学が求められているのではないか。

 注目の哲学者に聞く「哲学の時代」シリーズ第2回は、津田塾大学教授の萱野稔人さん。「暴力」をキーワードに国家論の新たな地平を切り開き、『カネと暴力の系譜学』では「カネ」「ヤクザ」からユニークな国家論を展開、時事問題にも発言をし続ける萱野さんに、“フリーター時代”のお話から憧れの『現代思想』デビューの頃のお話までを伺った。

◆ ◆ ◆

バンドをやっていて、哲学のことなんて何も考えていなかった


 

――一番最初に哲学に興味を持たれたのはいつ頃ですか。

萱野 大学に入ってからですね。私は知的には早熟な人間ではなかったんです。大学の同級生には中高の頃から哲学の本を読んでいる人もいましたが、私は全くそんな感じではなかったです。当時はバンドブームだったので、それに影響されてバンドを組んでドラムをやっていて。これは今考えると恥ずかしいのですが、作詞担当もしていました。「ヘビメタ少女」という曲を……恥ずかしい(笑)。哲学のことは何も考えていなかったです。

――作詞も! 文化祭で演奏されたりとか?

萱野 ライブハウスでやっていました。校則でエレキギターが禁止だったんですよ。まあ、それでも高校は中学に比べたら緩かったです。僕が中学生の頃はものすごい管理教育の時代で校則ガチガチですよ。70年代の終わりから80年代くらいは校内暴力が問題になっていた時代でしたが、それがちょうど落ち着いた頃に僕は中学生で、校則が厳しくなっていたんです。特に僕が住んでいた愛知県の岡崎というところは、全国トップレベルの管理教育の地域で。東は千葉県、西は愛知県が厳しかったんです。

――そういった規律や約束事の話って萱野さんの研究テーマの1つだと思うのですが……。

萱野 いや……、それはこじつけかもしれないですね、あんまり関係ない(笑)。校則に対して戦おうという気もなかったですし。何も考えていなかったんですよ。


 

ニューアカと自粛ムード 高3のときに昭和が終わった

――失礼しました(笑)。その後、早稲田大学の文学部に進まれるわけですが、文学部を選んだ理由は何かあったんですか。

萱野 特になかったですね。何の学問をやりたい、という明確な意思は全くなかったです。ただ、私が大学に入学した89年は、浅田彰さんをはじめ人文系の本が大学生を中心に広く読まれていた「ニューアカ」が落ち着き始めた頃でした。とはいえ、まだフランス現代思想は大学生の間でとてもよく読まれていましたし、政治に関心のある学生も多かったですね。

――89年には昭和天皇が崩御、昭和が終わった年ですね。

萱野 天皇崩御は1月7日ですね、僕は高校3年生でした。その頃の自粛ムードはインパクトがありましたね。NHKでは毎日天皇の下血量が報じられていましたし、世の中の空気全体が沈滞していた。自粛ムードで私の高校も文化祭や体育祭をやるのか、やらないのかという話になっていました。そういう「天皇制とは何か」「昭和とは何だったのか」ということが活発に議論されている雰囲気の中で大学に入学したんです。

山谷の越冬闘争で「国家権力ってこういうものか」と実感


 

――大学では天皇についてどんな議論がされていたんですか?

萱野 まあ有名ですけど、ロラン・バルトの「空虚な中心」論を援用しての社会分析とかですかね。バルトが『記号の国』という本の中で「天皇制とは空虚な中心だ」と論じてるんですよ。バルトが来日した頃にはまだ皇居を見下ろすような建物を作ってはいけないという空気が社会的にあって、皇居周辺には高い建物がなかったんですね。そのことに対してバルトが、日本は戦後ものすごい復興を遂げて先進都市の1つになったのに、真ん中だけが空白になっていると指摘したんです。これは都市論なんかにも影響を与えるわけですけど。そういったポストモダンの理論を使って今の日本社会を分析する、ということがアカデミックな世界で議論されていました。そんな空気の中で、僕も現代思想、そしてそれを使った現代社会の分析に興味を持ちました。

――大学ではサークル活動など何かされていたんですか。


 

萱野 ジャズのサークルに少し入っていましたが、続かなかったですね。あと、ちょっとこれは暗部なんですけど……、先輩に誘われて学生運動に行ったこともありました。例えば、長崎の本島等市長が右翼に撃たれるという事件があったんですが、その時は「表現の自由を守れ」とかいって、詩人を目指している学生が、詩が書かれた紙の入った瓶を投げるというパフォーマンスをしてて。そしたらその瓶が敵方の立て看に当たって、大変な騒ぎになったりするのを見ました。あとは、これも誘われてなんですが、山谷の越冬闘争に行ったこともありました。当時はまだ昭和の空気が残っていて、「労働者解放」「天皇制解体」とか書いてある横断幕がぶら下がっていたりしたんです。運動は激しかったので、機動隊とデモ隊の衝突も目の当たりにして、「国家権力ってこういうものか」と実感しました。私は主体的に関わっていたわけではなく、周りの人間関係に流されてその場にいた感じでしたが、暴力、国家、政府、権力といった問題に興味を持つきっかけにはなっていると思います。

――暴力を間近で見ることはなかなかないですもんね。

萱野 ええ、でも僕の原風景にもそういった記憶はあるかもしれない。地元の愛知県の岡崎は結構田舎で、僕が住んでいた頃はまだまだ貧しい地域だったんですね。小学校の同級生で空き地に建てた掘っ立て小屋みたいなところに住んでいる子もいて。家に入って、そのお父さんが出てきたら腕がなかったりとか。その友達は中学を出てやくざになりましたが。そういった暴力の風景みたいなものが記憶の中になんとなく残っていたことも背景にあるのかもしれないです。

「わからなさ」にありがたみがあった時代

――萱野さんが学生の頃は、どんな思想家や研究者の本が読まれていたんですか。

萱野 フーコー、デリダ、ドゥルーズ。この3人は特にビッグネームでしたね。日本だと蓮實重彥さん、柄谷行人さん、浅田彰さんの3人はスターでした。周りの皆が読んでいたので読みましたけど、「なんだこれは」みたいな感じで全然分からなかったですね。その「わからなさ」にありがたみがあったんですけど。『現代思想』も当時はすごく売れていて読んでみましたが、目次や特集を見て「こういう言葉が流行っているのか」程度でした。とりあえず話題になったものは「読め」と言われて読んだ感じで。今村仁司さん、網野善彦さん、中村雄二郎さん、山口昌男さんとか読んでいました。あとはマルクスの勉強会に参加してみたりもしましたが、何かをしっかり理解することもなく卒業しました。学部の授業とかではなく、その外側で、最初の哲学的な洗礼は受けましたね。


 

――卒業論文は何だったんですか。

萱野 和辻哲郎についてです。90年代は天皇の代替わりを経て、戦争責任の問題、歴史問題が議論される中、ナショナリズム批判が流行っていました。私もその流行に影響されて書きました。

フリーターから一気にパリ留学

――卒業されてからパリに留学されますが、その間に空白期間がありますよね?

萱野 フリーターだったんです……。就職活動も全くせずに、バイトをしていました。当時は「バブルが終わっちゃったな」程度の感じで、その後不況が続くとは思っていなかったんです。でもやっぱりバイトばかりやっていると息が詰まりまして。1年くらいそんな生活をして、ちょっと真面目に将来のことを考えて。大学院にでも進学しようか、と思ったんですよね。でも日本で試験受けるのは面倒くさいから、留学でもすれば箔が付くしいいかななんて。クズだったんですよ(笑)。1日中バイトしていたので全然勉強したり本を読んだりということもしていなくて。フランスに行くにも何かはっきりとした目的を持っていたわけではなく、研究者になろうとも考えていなかったです。とりあえず大学院に行って、修士終わったら就活しようかなとか漠然としていました。


 

――その漠然とした思いは、パリに行ってから変わりましたか?

萱野 そうですね、最初は語学学校に行っていたので、その間に何を研究しようかと考えて。フランスで興味がある分野、ポストモダン、フランス現代思想はどこでやれるのかなと調べていたら、どうやら哲学科らしいと分かってそこに進みました。これは日本との違いを感じた最初の点だったんですが、当時の日本では現代思想は哲学の文脈で読まれていなかったんです。柄谷行人さんは文芸批評の人、浅田彰さんは経済学の人でしたし、哲学専門の人が現代思想をやっていなかった。哲学を批判する中でフーコーやデリダが出てきたので、現代思想は哲学というイメージがなかったんです。日本で哲学と言えば過去の学問みたいに言われていましたから。その頃から、日本で理解されているフランス現代思想ってでたらめだなと思うようになりましたね。

パリで遭遇した9.11

――修士論文は何で書かれたんですか。

萱野 スピノザです。決めた時は読んだことなかったけど。哲学科に行くと決めたら、師事する先生を決めるんですが、若い世代でエティエンヌ・バリバールという有名な人がいて。彼の仕事の中にスピノザがあったので「スピノザでいっか」と思って、安易に行きました。上の世代の著名な学者はもう大学にいなかったんですよ。僕がフランスに行ったのは95年でしたが、その11月にドゥルーズは自殺していますし。

――95年というと、日本ではオウム事件、阪神淡路大震災がありました。衝撃を受けたりしましたか。


 

萱野 まだその時は日本にいましたし覚えていますが、衝撃を受けたということは正直あまりなかったですね。よく95年は戦後史の転換点と言われますが、当時は家にテレビもなかったし、反社会的な人間というか、社会に背を向けて生きていたんです。

――フランスにはトータルで8年いらっしゃいますが、その間、2001年には9.11がありましたよね。

萱野 それにはすごく衝撃を受けました。その頃は博士課程にいた頃だったので、社会に対する意識も高まっていて。正直、目の前の論文を書くのに精一杯ではありましたが、「革命って何だろう」と考えたりしましたね。当時、90年代終わりから2000年代初めのフランスは、大統領選挙でル・ペン候補が決選投票に残ったり、不法移民の建物占拠運動があったりして、激動の時代でした。哲学の中では左翼界の論壇が盛り上がっていて、左翼運動やデモによく参加しました。何が世の中で起こっているのかを見られて面白かったですし、フランス人って言いたいことがあればまずは行動するんだ、と実感しました。その頃にナショナリズム、国家、権力の問題を考えていました。

勝手に意味がついた“萱野三平”というペンネーム

――論壇デビューは『現代思想』ですよね。

萱野 はい、28歳の頃でフランス留学中ですね。大学の先輩で酒井隆史さんという方がいらして、今は大阪府立大学で社会学の先生をやられているんですが、彼は僕が学部の頃から思想界隈で有名な人でした。彼は既に『現代思想』に書かれていて、僕のことを当時その編集長だった池上嘉彦さんという方に話してくれて。「やってみない?」というカジュアルな感じで書かせていただきました。


『現代思想』に「萱野三平」のペンネームで寄稿したナショナリズム論(左)

――あの憧れの『現代思想』に。

萱野 ええ、分からなくて憧れていた『現代思想』に(笑)。大学生だった時の『現代思想』のイメージは雲の上の存在だったので、嬉しかったですね。

――『現代思想』ではペンネームを使っていらしたとか。

萱野 萱野三平としていました。赤穂浪士にその名前がいて、そこからとったんですが、あんまり意味はないんですよ(笑)。ただどこかで、三平の「サン」はフランス語で「sans」、「無い」という意味で、「ペイ」は「pays」で「国」という意味だから、「国を超えた人間」として「サンペイ」にしたんだろ、とか言われまして。勝手に意味が発生してしまいました(笑)。

(#2に続く)


 

写真=榎本麻美/文藝春秋

かやの・としひと/1970年、愛知県生まれ。パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。専門は哲学、社会理論。津田塾大学教授として大学で教鞭をとる一方、コメンテーターとしてテレビやラジオでも活躍。主な著書に『国家とはなにか』『暴力と富と資本主義 なぜ国家はグローバル化が進んでも消滅しないのか』がある。

(「文春オンライン」編集部)