子を産み、子を育て、家を守る。

昔からあるべき女性の姿とされてきた、“良妻賢母”。

しかしその価値観は、現代においてはもう古い。

結婚して子どもを産んでも、男性と同等に働く女性が増えた今こそ、良妻賢母の定義を見直す時だ。

レコード会社で働く佳乃は出産後、時短勤務で復職したが家事と仕事で追いつめられ、ついに離婚を切り出してしまった。紀之は、それを仲の良い同期に相談し解決策を提案された。




大事な会議を終えて、資料をまとめていた15時。その電話はかかってきた。

保育園からの呼び出しだ。

―せめてあと1時間後であればよかったのに……!

どこにもぶつけようのない悔しさと苛立ちが、佳乃を包囲する。

16時であれば、時短勤務の佳乃は早退にならない時間だ。だが、時計はまだちょうど15時を指したところ。

残りの1時間で仕上げようと思っていた資料はまだ手を付けたばかり。

それでも、あかりを迎えに保育園へ行かねばならない。

だが、こうして熱が出たからと行って急いで保育園に迎えに行っても、家に帰ると元気に遊んでいたりするのだから、その姿を見ると安心する反面、がっくりと肩を落とすこともある。

だから今日もまた、迎えに行っても大したことはないのだろう。そう思いながら、部署のメーリングリスト宛に、早退の連絡を入れる。

そして、頭を下げながらバタバタと会社を後にしたのだった。


あかりの病状を聞いて、佳乃が絶句する。




佳乃があかりを預けている保育園では、預ける時に熱が37.5度を超えていると預けられないし、預けている間にそれ以上の熱が出てしまえばお迎えの呼び出しがくる。

たしかに、今朝のあかりは少しだけ元気がなかったように思う。

熱も37.3度と微熱があり、余裕があれば最初から休ませてもいいくらいだった。だが、今日はどうしても出席しなければならない会議があった。

それでなくても、日頃から早退や休みを繰り返し、打ち合わせに出られないことも多い。

だから、大事な会議がある今日はどうしても出社したかった。

保育園に着くと、あかりは眠っていた。

「熱がどんどん上がっているので、すぐに病院に連れて行ってください」

いつも対応してくれる若い保育士にそう言われて、佳乃は少しの不安を感じる。

どうせ、いつもみたいにケロッとしているだろう―。

そう思っていた自分を責めたくなるほど、あかりの身体は熱かった。

急いでタクシーを捕まえ、かかりつけの小児科へ行った。

「インフルエンザですね」

40代中ほど、白髪が混ざったストレートの髪を持つ男性の医者に言われた。

「この時期に?」

驚いて先生を見ると、彼はこくりと頷いた。

「そうです。最近は外国人旅行者が増えた影響で夏のインフルエンザも増えたんです」

まさかこの猛暑の今、インフルエンザに罹るなんて思いもしなかった。

「え、じゃあ1週間くらい保育園には預けられないってことですか?」

慌てて聞くと、先生はまた頷く。

「お薬で熱は数日で下がると思いますが、感染防止のため1週間は保育園をお休みしてください」

「1週間……」

小さく呟いた。

その途方もない日数を聞いて、まったく関係のない目の前の医者さえ憎く思えた。

このやり場のない思いを、どこにぶつければいいのだろうか。

いろんな感情が一気に混ざり合うが、行くあてのないそれは、どこにも行けず佳乃の中にどしりと居座ることになった。


インフルエンザから、予期せぬ展開へ……。


それから4日後の月曜日。佳乃は今日も会社を休んであかりの看病をしていた。

昨日のうちに買っておいた『トラスパレンテ』のスコーンをかじりながら、日が照りつける窓の外を眺めた。

紀之との離婚問題は、まだ解決しない気まずい状況が続いている。

そのせいもあってか、明日は紀之が休んで看病を交代してくれる。だから明日は、お迎えの時間を考えず何時まででも残業できる。

それが佳乃の気持ちを少しだけ落ち着かせる。

ただひとつ、気がかりなことがあった。

先日の医者は、数日で熱は下がると言った。たしかに一時は下がったように思ったが、4日目の今日もまだ熱があるのだ。

今朝、紀之に相談すると「心配しすぎだよ」と言われたが、やはり気になる。

明日は1日仕事に集中するためにも、心配事はひとつでも減らしたい。そう思い、お昼過ぎに病院へ連れていくことに決めた。




「肺からちょっと嫌な音がしますね。念のため総合病院へ行ってください」

先日と同じ医者は、聴診器を耳から外すとそう言った。どうやら、インフルエンザをこじらせて、肺に合併症の疑いがあると言うのだ。

「ドクン」と佳乃の心臓が大きく波打った。

「え、総合病院?」

「はい、すぐに紹介状を書きます」

医者は「大丈夫ですよ」と言うが、本当に大丈夫なのか、実はそうでもないのか、佳乃には判断がつかない。

総合病院へ移動するタクシーの中では、嫌な想像がどんどん膨らんだ。

眠っているあかりをぎゅっと抱きしめると、自然に涙が浮かんできた。

―ごめんね、あかり。ごめんね……。

心の中で、何度も謝る。

全部自分のせいだ。あかりがインフルエンザになったのも、こじらせてしまったのも。

木曜日の朝、大事な会議があるからと言って、微熱があるのに保育園に預けたこと。今考えれば、あの日のあかりは朝から元気がなくて、少しぼーっとしていたように思う。

食欲もなかったし、いつも以上にぐずっていた。

もっとちゃんと気にかけていれば気づけたはずだ。こんなに苦しい思いをさせずに済んだはずだ。

―私のせいで……!

仕事なんて優先しなければ良かった。あかりのためなら、会議なんて休めたはずだ。あかり以上に大切なものなんて、ないのに。

何度も自分を責めた。

しんと静かな車中では、佳乃が鼻をすする音が響く。

2人を乗せたタクシーは、目黒通りを駆け抜けた。

▶NEXT:7月20日 木曜更新予定
病院にかけつけた紀之に対して、佳乃はある感情を抱くことになる。