撮影/榎並紀行

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東京都心への電車通勤。朝のラッシュの時間帯は「地獄」にたとえられるほどの過酷さだ。会社員は日々、仕事以前に満員電車というストレスとの闘いを強いられている。
では、陸路が満員なら水路はどうか? そう、東京には川がある。時折、観光船などの姿も見かけるが、基本的にはいつでも空いている。ここをどうにか通勤経路にできないものか? 都心の川を利用した「船通勤」の可能性を探ってみた。

平日朝8時、船で都心のビジネス街へ

今回ご協力いただいたのは、東京の河川で「水上タクシー」の運行を行う東京ウォータータクシー。2015年、日本初の水上タクシー専業会社として誕生し、「日常の足として使える船便」という、東京の新しい公共交通の確立を目指している。

【画像1】鮮やかなレモンイエローが目を引く水上タクシー(撮影/榎並紀行)

今回は、朝の通勤ピークタイムである8時台に品川防災船着場から水上タクシーに乗車。都心のビジネス街に向けて移動しながら、「船通勤」の実現性、現状や課題についても伺ってみることにした。

【画像2】船内風景。小型船なので水面が近い(撮影/榎並紀行)

【画像3】ゆったり座れる2人掛けシート。座席脇にコンセントも(撮影/榎並紀行)

【画像4】トイレも完備(撮影/榎並紀行)

船内は白を基調とした明るい雰囲気。定員は6名。座り心地のよいシート、清潔なトイレと、なかなか快適だ。飲食が可能なのもうれしい。おだやかな水面を眺めつつ、朝食をとりながら出勤なんて、なんとも優雅ではないか。

【画像5】船底の形状が工夫されており、揺れが小さく快適な乗り心地(撮影/榎並紀行)

なお、船尾には屋外デッキもあった。せっかくなので出てみると、驚くほどの開放感。さわやかな風と朝日が心地よく、波音の臨場感もいい。

船上デッキからは、レインボーブリッジやフジテレビ本社の社屋、話題の豊洲・築地の両市場といった名所を見渡す。見慣れた東京の風景も、水上から眺めると新鮮に映る。すし詰めの満員電車では、窓の景色を眺めることすら難しい。

「東京に50年住んでいるご夫婦が乗船された際に、『東京ってこんなに美しかったんだ……』と涙を流されたことがありました。陸からいつも見ている風景が、全く違ったものに見えるというのも船の醍醐味(だいごみ)の一つですね」と話すのは、東京ウォータータクシーの井上結葉さん。

「景色ではなく水面をただのんびりと眺めているだけでも、心が落ち着くと思います。夜は船尾の引き波に水中ライトが当たって、まるで雲の上を走っているようで幻想的なんですよ」(井上さん、以下同)

【画像6】レインボーブリッジの下をくぐる(撮影/榎並紀行)

【画像7】築地市場(撮影/榎並紀行)

船はそのまま快調に隅田川を北上。約20分で勝鬨橋(かちどきばし)簡易船着場に到着した。この日はとりあえず、品川から勝どき橋まで6kmほどの距離、電車にして2、3駅程度の区間の乗船だったが、都心のビジネス街に近い両国までは35分、浅草まで行くとしても45分で着くという。なお、電車の場合は品川駅から両国駅まで約19分。2倍強の時間はかかるが、少しの早起きと引き換えに「地獄」を回避できるなら、船通勤を選ぶ人は少なくないはずだ。

料金は? 課題は? 「船通勤」の実現性

ちなみに、気になる料金は乗船時間により異なる。天王洲から浅草の言問橋までの区間に点在する7カ所の乗船・下船ポイントをチョイスできる「タクシープラン」の場合だと、1航海につき30分5400円。快適であることは間違いないが、毎日の通勤の度にチャーターするとなるとコスト的に厳しい。

また、通勤の足として運用するとなると、便数の問題などコスト以外にもさまざまな課題がありそうだ。それらの課題に対する取り組みを含め、「船通勤」の実現性について井上さんに聞いた。

―― 30分で5400円。船のチャーター代としては手ごろかと思いますが、毎日の通勤の足としては高くつきますね。

「1名様でのご利用だと確かにご負担は大きいと思いますが、定員は6名ですので相乗りすれば1人あたり900円です。例えば品川から浅草までだと所要45分ですので、1人あたり1100円くらいになりますね」(井上さん、以下同)

確かに、同じ通勤ルートの友人とシェアすれば、そこまで非現実的な金額ではないのかもしれない。ただ、往復だと2200円、月20日出勤するとなると1カ月4万4000円だ。一方、品川駅(京急本線)― 浅草駅(都営浅草線)の1カ月の定期代は1万4070円である。

―― もう少し安くなるとうれしいのですが……。

「今後、利用できる桟橋の数が増え、日常の足としての需要が増えれば料金も改訂できるかもしれません。それこそ海外の水上タクシーのように定期券や回数券のようなものが発行できれば良いですね。おかげさまで、利用者数はここ1年間で前年比200%に伸びています。このまま順調にいけば、さまざまな方向性が考えられると思います」

―― 需要が増えれば、チャーターではなく定期運航も可能になるかもしれませんよね。

「じつは、すでに毎週水・金曜限定で定期便を運航しております。田町から天王洲まで約30分の区間を1日2便(ピストン運航)、料金は片道1人500円です。ワンコインで気軽に乗船していただく機会を設定し、まずは『水上タクシー』の存在自体を認知してもらうことが重要。狭い水路も航行できる小型船の特徴を活かし、私たちが常に人が集まる街の水辺に姿を現すことで、移動の選択肢に『船もありだよね!』という認識を広めていけたらとてもうれしく思います」

【画像8】安全性も考え、視認性のよいカラーリングにしているのだとか。遠くからでも目立つため、散歩中のお父さんから声をかけられていた(撮影/榎並紀行)

利便性ではなく、心にゆとりをもつための選択肢

―― どのあたりのエリアまで船で行けるんでしょうか?

「現在は東京港、川、運河を中心に29カ所です。乗降可能な場所は浅草、東京スカイツリー、清澄白河、錦糸町、亀戸、深川、日本橋、築地、田町、品川、天王洲、羽田などで、今後も順次拡大予定です。乗船される方のほとんどが小型船で東京の水路を巡るのは初めてというケースですので、予約の段階でお客様と打ち合わせし、目的に応じたおすすめの航路をプランニングいたします。リピーターの方は、また違うお仲間や家族を誘って、ご自身でプランを計画されます。お客様が乗船時間も航路も自由に設定いただけるのが特徴ですね」

―― 29カ所ですか、けっこう多いですね。

「東京の川や運河沿いには、100ヵ所以上の防災用の船着場があります。東京都の桟橋がさらに開放されればお客様の利便性が増しますし、2020年の東京五輪・パラリンピックに向けて新しい東京の観光価値やビジネス需要も高まると考えています。水上はビュースポットの宝庫ですから」

ちなみに、都心のビジネス街を横断する神田川にも船着場は点在している。そこが開放され、水上タクシーで乗り降りできるようになれば、通勤経路としての河川の可能性はさらに広がるだろう。

【画像9】こちらは勝鬨橋(かちどきばし)簡易船着場(撮影/榎並紀行)

なお、川の場合、どうしても自然に左右されてしまうところもある。荒天により船が出せないこともあるし、鉄道のように1分1秒の正確性を求めることはできない。ただ、それは事業者の課題というよりも、利用する側がそれを許容できるかどうか、ということも大きそう。利便性だけにとらわれない、大らかな心が必要だ。

現代人は忙しい。悠長に船通勤などしていられないという意見もあるだろう。しかし、例えば週に1回、通勤しながら水上をぼんやり眺める時間が持てたなら、日ごろの悩みやストレスなど、心の荷物を少しだけ軽くすることができるかもしれない。

●取材協力
東京ウォータータクシー
(榎並 紀行(やじろべえ))