JASRAC"式辞の歌詞引用"で請求は正当か

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■式辞の歌詞引用で使用料が発生?

「風に舞う答えを、勇気を出してつかみとらねばならないのです」

今年4月、京都大学の入学式で山極壽一総長が新入生に贈った式辞の一部である。昨年ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの代表曲『風に吹かれて』の歌詞を引用しながら新入生を鼓舞する、好スピーチであった。

その式辞全文を大学のホームページに掲載したところ、日本音楽著作権協会(JASRAC)から大学に掲載使用料の請求が届いた、と京都新聞が報じた。このニュースに世論は「そこまで徴収するのか」と強く反発。ネット上では「カスラック」などの卑語も飛び交っている。

改めてJASRACは、何の団体か振り返っておこう。音楽は歌詞とメロディが著作物にあたり、JASRACはその著作権を集中管理している。もともと著作権を保有する作詞家・作曲家は、ほぼ権利譲渡のかたちで、JASRACに著作権を信託。そしてJASRACがクリエーターに代わって、曲の利用の許可を出し、使用料を徴収していく。もし許可を得ないまま、誰かがCDを発売したり、ネットにアップロードしたりするような無断使用や海賊版を見つければ、著作権侵害として民事訴訟や刑事告訴に積極的に踏み切る。JASRACが世間から、強欲だ、傲慢だと非難される所以である。

ただ、著作権が集中的に管理されていること自体は決して悪いことではない。クリエーターが個人で、自分の作った音楽がどこで使われているかを調べ、使用料を徴収するのは不可能だろう。一般人にも利点はある。たとえば既存曲を歌った動画をネットで公開したい場合、JASRACのオンライン窓口から申請すれば、ものの10分で処理が完了する。様々な楽曲を扱う放送局も、JASRACが存在することで、業務が成立している。

それでは式辞の一件はどうだろう。ディランの楽曲の著作権を管理するJASRACに、事前に断りを入れる必要があったのかといえば、おそらくそうではない。著作権法には、人の作品を自分の作品のなかで紹介する行為は一定の条件で許される、引用の例外というものがある。引いてくる人の作品と自分の作品を、混ぜないようにする「明瞭区別」。自分の作品がメーンで、引いてくる人の作品はあくまで補足にとどめる「主従関係」。人の作品を引くだけの「関連性」も問われ、「出典明記」も必要だ。京大のケースは、この適法引用にあたるかどうかが論点だった。

『風に吹かれて』の歌詞は、式辞の文脈に使われる必然性もあり、出典も明らかにしていた。また「主従関係」については全体の何%か定まっているわけではないが、使われたディランの歌詞は式辞全体の5〜10%。法的に見て適法引用が成立する可能性がかなり高い見通しだったと言える。

その後、JASRACは、大学への連絡は請求ではなく、使用意図など事実関係を確認するための問い合わせだったと報道を否定。さらに理事長が、「引用として判断している。著作権使用料を請求はしない」と言及し、幕引きとなった。しかし、京大のウェブサイトに式辞の全文が掲載されており、見れば引用かどうかの判断はつく。やはり請求の意図をもって連絡したのではないかという疑念は残るところだ。

■拡大する徴収範囲、次なる矛先は……

最近、もうひとつ注目を集める話題が、音楽教室への請求である。

6月7日、JASRACは来年1月より、同協会が管理する著作物をピアノなどの音楽教室で演奏した場合、教室が得た受講料の2.5%を徴収する方針を明らかにした。

JASRACは、音楽教室で教える行為には著作権法で定める「演奏権」が及ぶと主張する。演奏権の対象となるのは、公の演奏。つまり公衆に聞かせる目的での演奏である。公衆の定義は「不特定または多数の人」で、多数とは数十名以上のレベル。たとえば客がたった1人でも、誰でも入れるライブハウスは「不特定」に対して、結婚式や卒業式などは「多数」に対して演奏しているから、公の演奏と見なされる。家で家族にピアノを聞かせるのは、聴衆が特定の少数者のため、公の演奏とは見なされない。

JASRACの言い分は、誰でも入学できる音楽教室は不特定に対して門戸を開いており、入れ代わり立ち代わり生徒が来るから、全体を見れば多数。つまり、不特定かつ多数の公衆に聞かせる演奏というわけである。2004年、社交ダンス教室で流す音楽に対して著作権使用料を求めた際、上記の考えを裁判所は認め、JASRACは勝訴した。ゆえに今回も強気だ。

一方、音楽教室は、おもに「公衆」の定義ではなく、「公衆に聞かせる目的の」演奏などしてはいない、という点で争おうとしている。聞かせる目的の演奏とは、コンサートや結婚式。しかし音楽教室の演奏はそこに至るまでの準備段階であり、聞かせるためではなく練習や指導するための手段にすぎないという主張だろう。実際、多くの音楽教室は、練習で使用する楽譜や、公衆に聞かせる発表会で発生する著作権料はきちんと支払っているはずだ。

機械的に見れば、「公衆」「聞かせる」「演奏」の要素が一見揃っているが、全体で見たとき、「公衆に聞かせる目的の演奏」として使用料を徴収するのは、どうも違和感が残る。おそらく現在の著作権法に「演奏権」を置いた当時の意図からは、はずれているのではないか。

音楽教室を主催する団体が参加する「音楽教育を守る会」は、音楽教室での演奏は著作権侵害に当たらないという確認を求め、7月に東京地裁に提訴する予定だ。社交ダンス教室の裁判は、第三者が演奏した音源を流して、教室と生徒が音楽を享受しているとも思えるから、ここまで激しい議論にはならなかった。しかしCDの売り上げが減少する近年、カラオケはもちろん、フィットネスクラブ、プロレスの入場曲など、JASRACは徴収範囲を拡大することで、収入を維持してきた。今回は、かなり微妙なところに手を伸ばしてきた印象である。裁判の見込みは五分五分というところだろう。

■著作権はバランスが問われる権利

クリエーターを支えるためにJASRACの存在は必要だが、人々の見る目は年々厳しくなってきた。その背景には、誰もがソーシャルメディアで発信する1億総発信時代になったことがある。これまで著作権が他人事だった者の多くが、当事者になったのだ。

デジタル化が進む現代では、人々は過去のあらゆる音源にアクセスできるようになり、世界中に向けて流通もできる。そこで著作権とJASRACの影響力も相対的に高まった。そのタイミングで発生した京大や音楽教室の事件を通して、JASRACは「われわれの自由を制限しようとする団体」として反発を受ける存在になっていった。

著作権はバランスが問われる権利である。クリエーターの収入収益は守るべきだが、だからといって自由に引用もできないと、情報伝達の否定になってしまう。文化の伝達・継承は、ホモ・サピエンスの定義のひとつでもあり、人類史の主要な駆動力だった。

最も自由に情報を伝達できるはずの現代で、著作権がそれを阻害するようになったら、どんな悪影響を及ぼすか、想像するのは難しい。「文化を守るため」とJASRACは主張するが、行きすぎると文化が生まれなくなる。教室で自由に教えられなくなることで、音楽を愛し、お金を使う将来の演奏者や聴衆を失う可能性もあるだろう。

今、JASRACはわかりやすい言葉で、人々が納得する解決を示す必要があるのではないか。「答えは風に吹かれている」とディランは歌った。逆風の中にいるJASRACが、答えを見つけることを期待している。

(弁護士 福井 健策 構成=須永貴子)