田原総一朗×三井エージェンシーインターナショナル代表 三井悠加

写真拡大

江戸時代に大流行した浮世絵。「冨嶽三十六景」や「東海道五十三次」などを連想する人も多いだろう。しかし戦後、新作はほぼ作成されず、職人も減少しているという。ロスを拠点に、世界のスターをモデルにした浮世絵を売り出す女性に会いに行った。

■復刻版がほとんどの浮世絵ワールド

【田原】三井さんはロックスターの浮世絵を企画、販売しているそうですね。これは誰ですか?

【三井】アメリカのロックバンド、キッスです。ロックの世界ではレジェンドと呼ばれています。

【田原】そんなすごいバンドがよくオーケーを出してくれましたね。

【三井】みなさんミュージシャンであると同時にビジネスマン。キッスは昔から白塗りのメークをしていますが、その理由は年を取ってからも音楽を続けるためだったそうです。ただ、顔はメークでごまかせても、声は徐々に出なくなる。だからそろそろアートの世界に行きたいと考えていて、そこに私がタイミングよくオファーを出したそうです。

【田原】アートといっても、いろいろです。彼らはどうして浮世絵のモデルになろうと思ったんでしょう。

【三井】キッスのメークは歌舞伎にインスパイアされたものです。加えて、何度も来日していて、日本に好印象を持っていたことも大きい。「自分たちが本物の浮世絵になれるなんて、こんなにうれしいことはない」と言ってました。

【田原】ところで三井さんはどうして浮世絵をつくろうと考えたのですか。

【三井】戦後の浮世絵は、一部の風景画を除き、過去の作品の復刻版しか出ていない状況でした。でも、復刻版をつくるだけでは業界が廃れて、技術が継承されなくなってしまう。浮世絵は元の絵を描く絵師、版木を彫る彫師、色を載せる摺師といった職人さんによる総合芸術。職人さんが食べていける環境をつくりたくて、新作に取り組み始めました。

【田原】新しい浮世絵はつくられていないんだ。

【三井】浮世絵の「浮世」は現代という意味なので、私のなかで「新しい浮世絵」は、いまの風俗やスターをいまの感性で描くことと定義しています。その意味では「新しい浮世絵」はつくられていませんでした。

【田原】つくるのは難しいんですか?

【三井】キッスのこの浮世絵は、1枚つくるのに96回摺って色を塗り重ねます。少しでもズレたらまた最初からやり直し。絵を描くところから出来上がりまで、6カ月かかりました。

【田原】96回!? すごいですね。何枚くらい摺るのですか。

【三井】一つの絵柄で限定200枚。たくさん摺ると版木の細かい線がすり減ってクオリティを保てなくなるので枚数を限定しています。通常のものが1枚10万円で、キッスのサイン入りが22万円です。

【田原】いいお値段ですね。

【三井】浮世絵をポスターだと思っていると高く感じられるようですが、一方で浮世絵が絵師・彫師・摺師の総合芸術だと知っている方には、「ファインアートとして売るなら、最低300万円にはしないと」と言われています。今後のブランディングについては検討中です。

【田原】これまでどれくらい売れたんですか。

【三井】発売した時点ですぐ半分が売れました。海外販売用に半分はストックとして残しています。

【田原】ところで、三井さんは東京生まれで、中高一貫校にお入りになった。でも、大学には行かずに専門学校を選ばれた。

【三井】大学に行っても遊んで終わりそうだったので、手に職をつけようと専門学校にしました。

【田原】具体的にどんな学校に行かれたんですか。

【三井】興味があったのは彫金です。ジュエリーのデザインをして、銀を彫って鋳造するところまで教えてくれる学校に2年間通いました。

【田原】ジュエリーづくりはおもしろかったですか?

【三井】はい。1年のときに渋谷パルコのシルバーアクセサリーのショップで店員のアルバイトを始めたのですが、オーナーが「専門学校で学んでいるならデザインをやってみないか」と言ってくださいまして。実際に私がデザインしたアクセサリーが店頭に並びました。デザインしたのは、ゴシックと呼ばれる大きくてごつい感じのアクセサリー。接客中、自分がデザインした製品が売れるのを目の当たりにして、本当にうれしかったですね。

■夏川りみ、山内惠介と全国行脚

【田原】しかし、三井さんはその店に就職しないでお父さんの仕事を手伝うようになった。お父さんは何をやられているんですか。

【三井】父はもともとポニーキャニオンというレコード会社で働いていました。そのときにスカウトしたのが、夏川りみさん。スカウト当時は12歳。星美里という名前でデビューしたものの、あまり売れなくて沖縄に帰っていました。しかし、父は絶対に売れると信じていて、独立して芸能プロダクシヨンをつくって呼び戻したんです。再スタートを切ったところ「涙そうそう」が大ヒット。私が専門学校を卒業する前年の暮れに紅白出場が決定して、これはもう手伝うしかないなと。

【田原】手伝うって、どんなことを?

【三井】できることは何でも。たとえば衣装のアイロンかけをしたり、ファンクラブの会報をつくったり。写真を撮ってHPにアップしたり、グッズをつくったりもしました。

【田原】そのまま家業を手伝うのかと思ったら、29歳のときにロサンゼルスに留学される。

【三井】当時はまったく休みがなくて、ちょっと立ち止まりたかったんです。ありがたいことにのちに紅白に出場する山内惠介など、ほかの所属歌手も忙しくなってきて、20代は各地を飛び回る日々でした。1年で47都道府県をすべて回った年もありました。ただ、演歌界はとても小さな世界。自分のキャリアを考えると新しい世界を経験したかったし、30歳になってからでは一歩踏み出せなくなる気がして。行くなら、29歳のいましかないなと思って渡米しました。

【田原】三井さんは貴重な戦力だっただろうに、よく決断できましたね。

【三井】マネジャーは代わりがいます。3.11があったとき、私は3代目コロムビア・ローズという演歌歌手を担当していました。宮城県の荒浜出身ということもあり、慰問に行くと、被災者のみなさんが泣いて喜んでくださった。その様子を見て、「歌を届ける仕事は歌手にしかできない。私も自分にしかできない仕事をしたい」と思ったんです。その経験も背中を押してくれた気がします。

【田原】でも、その先がなぜロサンゼルスだったのですか。

【三井】正直に言うと、自分に何ができるのか、当時はよくわかっていなかったです。ロスを選んだのは英語と本場のエンタメビジネスを学ぶためで、最初の1年間は語学学校に通いました。その後はUCLAの夜間に進学しました。

【田原】エンタメビジネス?

【三井】私が勉強したのはツアーマネジメントやライセンスビジネスです。ロスはエンタメの本場だけあって、講師陣が豪華。マイケル・ジャクソンの元マネジャーやエアロスミスの顧問弁護士が教えてくれました。

【田原】三井さんが浮世絵と出合ったのはいつですか?

【三井】日本で夏川りみさんのマネジメントをしていたときです。浮世絵の版元さんが会社に、浮世絵のグッズをつくらないかと相談にいらしたことがありました。このときは実現しなかったのですが、実物を見て、細かな仕事に感激したんです。それから興味を持ち始めて、美術館などに見にいくようになりました。

【田原】仕事にしようと思ったきっかけは何ですか。

【三井】ロスの語学学校で、自分の国の文化を紹介する授業があって、私は「冨嶽36景」を紹介しました。みんなの反応がすごくよかったので、浮世絵は海外でも受けるなと直感しました。浮世絵の職人さんが非常に少なくなっていることは知っていたので、「アメリカで売ってみたらどうですか。売れれば職人さんの仕事も増えるのでは?」と版元さんに提案。すると、「じゃ、三井さんがやってよ」と(笑)。

【田原】なるほど。でも、浮世絵をつくるなら日本を拠点にしたほうがいいんじゃないですか。

【三井】世界の人に認知してもらうには、海外のスターを描くことがもっとも手っ取り早い。海外のスターとライセンスの交渉をするなら、ロスに拠点を置いたほうがいい。だから向こうで会社を立ち上げました。

■なんで演歌マネジャーを辞めてアメリカに?

【田原】どうやって交渉したのですか。

【三井】日本の総領事館が主催したパーティでホリプロさんと出会いました。ホリプロさんはアメリカではライセンスビジネスを展開しています。そこで海外スターの浮世絵をつくりたいと話したら、ライツを持っているアーティストを挙げてくれ、そのなかにキッスの名前があって、彼らしかいないと。

【田原】次はどうしたんですか。

【三井】ホリプロさんの紹介でマーチャンダイジングの権利を持つ会社に連絡したところ、「明日社長と副社長がいるから来てくれ」と。本当は家庭教師ときちんとプレゼンの練習をしてから行きたかったのですが、このチャンスを逃したらたぶん次はない。通訳の手配も間に合わず、結局、自分のつたない英語でプレゼンしました。幸い、浮世絵の世界観への反応も良く、キッスのメンバーも快諾してくれ、「半年後に日本に行くから、そのときまでにつくってほしい」とトントン拍子で話が進みました。

【田原】つくる職人さんは、すぐ見つかったのですか。

【三井】そこで躓きました。当時、日本に彫師は9人、摺師は30人。絵師に至ってはゼロだったので、どうしたらいいものかと。

【田原】絵師はいなかったんだ。

【三井】はい。浮世絵風の絵を描くイラストレーターさんはいらっしゃるんです。でも、描いてもらうと浮世絵の様式美が再現されていない。こちらの要望を伝えると、「これ以上本格的なものは描けない」と言われてしまいました。

【田原】それでどうしたの?

【三井】摺師の職人さんから「6代目の歌川国政がいて、ロックを聞きながら絵を描いている」と聞きました。ただ、誰も連絡先を知らないし、ネットで検索しても情報がない。ようやく見つけたのが、「6代目歌川国政という名跡を使わないで、本名の石川真澄で個展をやった」という記事。藁にもすがる思いでギャラリーに連絡して、ようやくつながり、絵を描いてもらえることになりました。

■現代の浮世絵師養成学校をつくる

【田原】石川さんは本物の絵師と言っていいんですか。だって、新作は誰も描いてないんですよね。

【三井】6代目歌川豊国に師事していたり、新藤茂先生という浮世絵の研究者に弟子入りされていたので、腕はパーフェクト。ただ、石川さんにも自分の絵が本物の木版画や浮世絵になった経験はありません。筆では描けても、木版画にして摺ると、線にならない線、色にならない色があります。そういったものを彫師さんや摺師さんと話し合いながら絵を仕上げていきました。完成したのは、キッスが来日する直前でした。

【田原】最初に企画したものだけでなく、ももいろクローバーZとコラボしたものもつくったそうですね。

【三井】制作を進める途中で、キッスが来日時に、日本のアイドルとコラボするという情報をキャッチしました。詳しく話を聞いてみると、相手はももクロで、コラボ曲のタイトルが「夢の浮世に咲いてみな」という、浮世絵をテーマにしたものだと。まったくの偶然でしたが、急遽ももクロの浮世絵も追加しました。こちらも200枚限定で、ももクロのファンを中心に60枚が一気に売れました。

【田原】今後はどう展開しますか。

【三井】これから世界のポップカルチャーのレジェンドを浮世絵にしてシリーズ化します。第2弾として、ヘヴィメタル界のレジェンド、アイアン・メイデンの浮世絵をつくりました。浮世絵にしたのは本人たちではなく、エディというバンドのキャラクター。すでに2016年末に販売を開始しました。まだ言えませんが、このあとも新作を作成予定です。

【田原】シリーズ化して、その先は?

【三井】ギャラリー展示の世界ツアーをやりたいです。いまキッス4枚、アイアン・メイデン2枚で計6枚ですが、まずはそのためにラインアップを揃えます。

【田原】世界に浮世絵を広めるわけだ。

【三井】はい。広めるアイデアはいろいろあります。最先端のメディアアートと組み合わせて、日本の伝統工芸とテクノロジーを紹介するのもおもしろい。いろいろなやり方で世界に「UKIYOE」を広めたいと考えています。

【田原】目的のひとつは職人を増やすことだとおっしゃっていた。作品を発表後、変わりましたか。

【三井】彫師と摺師は増えました。この前も「弟子が2人入ったよ」と連絡をいただいて、この活動が日本の伝統技術の保存に微力ながら貢献できたと実感しています。でも、後世に名の残る浮世絵師に関しては、しっかりと浮世絵の線が描けるのは、石川真澄さんしかいません。

【田原】絵師を増やすための作戦はあるんですか。

【三井】絵師を育てる学校をつくりたいです。絵師になりたいけど、なり方がわからないという人が多いはずなので、そこで何かできたらなと。

【田原】頑張ってください。

■三井さんから田原さんへの質問

Q. これからでも日本から新カルチャーは生まれますか?

日本の歴史上、文化がもっとも華やかだったのは江戸時代でしょう。なぜ江戸時代に文化が隆盛したかといえば、鎖国していたから。外国から文化が入ってこなかったので、独自に発展せざるをえなかったわけです。いま日本独自の新しいカルチャーが生まれていないとしたら、それはグローバリズムと無関係ではない。日本はAIの分野で世界に後れを取っています。それは自分たちがやらなくてもグーグルやアップルがやってくれるから。おそらく文化も同じです。

だからといって鎖国がいいとは思いません。グローバリズムを前提に若い人たちが新しいものを生み出し、広められれば実現できるでしょう。

田原総一朗の遺言:グローバル化の波に乗れ!

----------

編集部より:
次回「田原総一朗・次代への遺言」は、ウォンテッドリー CEO 仲暁子氏のインタビューを掲載します。一足先に読みたい方は、7月24日発売の『PRESIDENT7.31号』をごらんください。PRESIDENTは全国の書店、コンビニなどで購入できます。
 

----------

(ジャーナリスト 田原 総一朗、三井エージェンシーインターナショナル代表 三井 悠加 構成=村上 敬 撮影=枦木 功)