読書より運動? 学校の休み時間は誰のものなのか

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保育園時代から読書を趣味にし、年長のころには小学校低学年向けの物語はすらすら読むことができていた長男。隔週で図書館から本を借りては返す日々だ。

この4月から学校の図書室を利用できるようになった6歳児は、毎週さまざまなお話を持ち帰っては読みふけっている。


起きているときはずーっと喋っている長男がつらい時期もあったが、本を読むようになってからは静かにしてくれる時間ができて、合間に私も本を読む時間が取れるようになった。

次男(2歳)もほうっておくと、ひとりで黙って本をめくり、「ぱんだ!」「ぞう!」と動物を指さしている。

私の育児は今、読書に助けられている。

■「本を読んでいる」を理由に注意される事案が発生


「あの……、ずっと机で本を読んでいて、外で遊ばないんです」

5月、はじめて親として“家庭訪問”というイベントを体験した。
私のころは先生が居間に上がり、親がお茶を出し、私は傍らで耳を傾けながら違う遊びをしていたものだったが、「玄関先でけっこうです」という事前告知どおり、我々は玄関先で立ったまま話をした。

「学童の先生からもそのように言われてまして、できるだけ外で遊んで欲しいなあと思っているんですけど」

長男が外遊びを嫌いか、というとそうではない。

10分ほどで担任の先生は次の現場に向かったのだが、校庭で遊んでいた長男が顔にケガをして歯医者に運ばれた、と学童から電話があったのはその1時間後のことだった。

幸いにして歯も折れておらず、下唇を少し切っただけだったが、うんていからの着地に失敗して顔からいったとのことで、運動神経は大丈夫かと心配される気持ちはわかる。

しかし、かけっこも早くサッカーもそこそこうまい。先日のスポーツテストではシャトルランで1位だったという。先生が指摘する問題の本質が、いまいち見極められずにいたのだ。

■休み時間は誰のもの?


先日、長男の通う小学校では学校公開があった。
2時間目と3時間目の間には20分の中休みが設けられているのだが、チャイムが鳴ると、トイレと水分補給を済ませて外にいくよう先生は指示を出していた。校庭で遊ぶ様子を、親たちは見たり、お母さんどうしの会話で盛りあがったりしていたのだ。

そんな中、長男は私を学校の図書室に案内するも施錠されており、しかたなく教室に戻るとひとり、クラスに置いてある本を読んだ。

「外遊びにいかないの?」

担任が呼びかけるも、黙々と彼は本を読む。先生は説得をあきらめて3時間目の準備に入った。

2歳の次男が兄を真似て、同じように教室のかごから絵本を取り出し、空いている隣の席に、よいしょ!っとのぼり、「よんで!」と私を呼ぶ。

「いつもこんな調子なんですよ」担任は私にいった。

「なんで外いかないの?」と私が長男にたずねると「つまんないから」と返事をした。

「昼休みは、外いってるよ?」

これは想像だが、休み時間は先生の授業準備にあてたいから、子どもはできるだけ外遊びをしてほしいのではないだろうか。だとすれば、長男が部屋に残ることでちょっと邪魔になっているという気持ちはわかる。

しかし、“休み時間”とはなんだろうか。
休憩時間を自由に過ごす権利は、小学生にはないことになっているのだろうか? 給食も授業の一環になっているそうだし、休み時間も同じ扱いなのだろうか。

私は次男が選んだ『おおきなかぶ』を読み聞かせしていたが、チャイムが鳴り「はい、おしまーい!」というと、2歳児は兄と二人で片づけをはじめた。少しお兄さんになった気分で、うれしかったのかもしれない。

■読書と運動を同一線上に並べるのは正しいのだろうか


小学校の校庭開放日、芝の上で遊ぶ子どもたちに目をやりながら、同じクラスの親が数人集まって雑談をした。私が“先生に読書を注意された話”をすると、みな一同に「うらやましい!」という。

「うちなんかどうやったって読まないし数ページでやめちゃう」
「図鑑しか読まない」

長男はもしかしたら、イマドキの小学生としてはレアなのかもしれないと思ったのだった。

「でもさー、読書は別に悪いことじゃないじゃん? 運動もして、読書もして、でよくない? だって運動得意でしょ?」

あるお母さんがいったその言葉、私はまったくそのとおりだと思った。
しかし、我々の世代(平均年齢30代後半)は、「外で遊んでないで本読みなさい!」とよく言われたものだが、今は違うのかもしれない、という疑惑が拭い去れずにいた。

小学生の運動機能の低下が問題となっている昨今、筆者の居住区の公立小学校では、体育に力を入れるべく、簡単な体操が毎日宿題となっている。

もちろん“学力向上の取り組み”などという資料も学校ホームページで公開されているのだが、それよりも体育のプライオリティが高いのかもしれないと思っていた。

モヤモヤしていてもしょうがないので担任に一応その旨は告げたほうがいいかなと思い、「読書は読書で大事な習慣だと思っており、それと外遊びへの参加は別軸で検討していただけないでしょうか」そのように連絡帳に記入した。

その日、学童でサッカーをしていた長男が顔をケガしたと連絡があった。
小学生、本当にケガが絶えない……。

■担任の教科で子どもの教育は左右されるのか


筆者の恩師の中で忘れられない先生がいる。

小学3年生のときの担任だったが、後ろの黒板に「読書がんばり表」というのが貼られ、読んだ本の数だけ、営業成績表みたいにシールを貼る仕組みになっていた。

本を読むのが異様に早かった筆者は、毎月ぶっちぎりの1位を取り表彰されていた。月間50冊近くは制覇していただろうか。椋鳩十の作品がとりわけ好きだった。

先生の専門教科は国語だった。
本を読むことの大切さを常日頃先生は口にしていた。
朗読が得意で本も好きだった私は、先生が大好きだった。

ある日、先生は病に倒れた。
代わりの先生は音楽の先生だったが、なるべく前任の先生の意向を引き継ごうとしていたようだった。

「読書がんばり表」は引き継がれたが、やはり先生の得意科目に興味が寄るようで、4年生の後半は学年劇が全国大会に出たことも重なり、劇中の合唱に力を入れていたような気がする。

小学3〜4年生で読書習慣がついたことと、その後、演劇クラブ〜演劇部と10年あまり台本を読み込む生活だったので、ありとあらゆるおはなしを読み続けた10代だった。

「本はね、読んだ本の数と中身が、いつかあなたを助けるのよ。」

いつだったか先生にいわれた言葉を、私は長男に告げた。

そういえば、と思い、長男の学年の先生たちの担当教科を見てみたら、過半数が体育の先生であった。

「なるほど……。」

■“体育が苦手だった小学生”の叫び


フジテレビで放送中の『久保みねヒャダ こじらせナイト』という番組があり、その中で体育が苦手な出演者たちが、“体育の授業に対する恨み”についての川柳を募集するコーナーがある。

先日、朝日新聞で「スポーツ嫌いの中学生を今の半分に減らす」というスポーツ庁の計画について番組出演者の3人がインタビューに応じていたが、新聞のインタビューにも番組と同じテンションで答えていて痛快だった。

記事の締めにあった、スポーツ庁長官・鈴木大地氏の「これからは体育が嫌いな人の意見も聞かないと」との発言について、番組内で「そうじゃなく、我々のことはもう放っておいてほしいし、それより予算のつかないアマチュアスポーツを支援して欲しい」と答えていたことに、スカッとした人も多いのではないだろうか。

筆者は体育の得意種目にばらつきがあり、体育は5段階評価の2〜3をうろうろしていたが、「団体行動」「連帯責任」といった体育会系の発想がそもそも苦手だった。

思い返せば、小学校時代の私は非常にインドア派で、20分休み(“中休み”を筆者の地方ではそう呼んでいた)にはいつも絵を描いたり編み物をしているような子だった。

冬の体育なんて最悪だ。縄跳びは痛いし、冬なのに半袖にブルマだなんて意味がわからない。「全員できるまで特訓」といわれた逆上がりは、ついにできることがないまま成人した。

学校の体育なんて、なくなればいいと思っていた……。

「中休みは外で遊ぶもの」というのは、おそらく学校の政治では正しい。
学校に限らず、特定のカテゴリ内で長く生活する集団では、“例外がある”という認識が生まれにくい。

小学校生活は教育機関の中でも長い。
入学した年度はある意味“外様ポジション”なので、いろいろな「あれ?」が見える。

頻繁に質問していたため、1学期の前半ですでに校長に顔を覚えられている筆者、影で“モンペ”と呼ばれている可能性はおおいにあるが、進級してなにも疑問に思わなくなる前に、引っかかるものを洗い出したい。

長男も次男も小学校生活は6年だが、私と夫の“小学生の親生活”は、この先10年あるのだ。やるなら今しかない。

ワシノ ミカワシノ ミカ
1976年東京生まれ、都立北園高校出身。19歳の時にインディーズブランドを立ち上げ、以降フリーのデザイナーに。並行してWEBデザイナーとしてテレビ局等に勤務、2010年に長男を出産後は電子書籍サイトのデザイン業務を経て現在はWEBディレクター職。