結婚して家を買い、そして子どもを授かる。

今まで「幸せ」だと信じて疑わなかったもの。

しかしそれを信じて突き進んでいくことが、果たして幸せなのだろうか?

外資系化粧品会社でPRとして働く祐実、29歳。

結婚生活3年目。夫の浮気が発覚し、人形町へ引っ越した祐実。昇進も決まり、一人で前祝をしているとき、ある男に出会う。




『イレール 人形町』で再会した男は、寛と言った。

濃い眉毛に彫の深い顔立ちで、体は大きいがとても繊細そうな男だ、と祐実は思った。

「へぇ、最近人形町に引っ越されたんですか。でも何でまた、突然?」

その問いかけに、祐実は何も返すことができなかった。すると、寛はすぐに話を変えてくれた。

「……いろいろありますよね。僕は妻と別居してちょうど1年。前は中目黒に住んでいたんですけど、気分転換に、東京の東側に住んでみようと思って」

妻と別居してちょうど1年。その言葉が、強く祐実の頭に残る。

「中目黒も悪いところじゃないですけどね。僕はこっちのほうが断然住みやすいですよ。中目黒って雰囲気勝ちみたいな感じしません?前にネットで読んだ記事に書いてあったんですけど、東京って男性は東側、女性は西側に住むらしいですよ。分かる気がするなぁ……」

寛はそこまで一気に喋り、スマートフォンを取り出してその記事を見せてきた。身を乗り出して勢い良く話す姿に思わず笑うと、彼はスマートフォンをテーブルに置いた。

「ようやく、笑いましたね」

そして、こう続けた。

「笑った方が素敵ですよ」

その言葉に何と言っていいか分からず、思わずうつむいてしまう。

「……すみません。でも、僕はまだ結婚している身だから」

そして少し真面目な表情になってこう言うのだった。

「祐実さんを口説こうと思っても、口説けない」

少しおどけてそう言った寛に、また笑ってしまう。不思議な男だと、思った。


同じ境遇の男との出会い。少しずつ、祐実の心が溶け出していく。


寛と連絡先を交換して、祐実は家に戻った。寛は水天宮のほうに住んでいるらしい。

赤ワインをグラスで3杯飲んで、酔いはずいぶん気持ち良く回っている。

別居して以来、初めて心がふっと軽くなった気がした。



「祐実さん、来月号のゲラが上がってきたんですけど、価格表記が違っていて…」

マネージャーという肩書はついたものの、実質チームをマネジメントするのはシニアマネージャーの仕事であるから、祐実は実務面で対応に追われることが多かった。

かと言って、それまでの仕事が減る訳ではなかったので、実際はかなりの負担増だった。肩書がつくことで夜の付き合いも増え、祐実は朝から晩まで働きづめだった。

妊娠した菜々子が辞めてしまう気持ちも、分からなくはない。この仕事を続けながら子育てするというのは、たしかに想像がつかない。

しかし祐実にとって、そのくらいの忙しさのほうが余計なことを考えなくて済むし、今の精神状況にはちょうど合っているように思えた。


別居して、痩せた夫に心が痛む


今日、別居してから初めて純と会う予定だった。場所は銀座の『ル ボーズ』。




祐実が店に着くと、純はすでに待っていた。

「元気だった?」

にこやかに微笑む純は、少し痩せたようだった。その姿を見て、少しだけ胸が痛む。

「……元気にやってるわ。純は?」
「何とか」

そこまで言うと、長い沈黙が流れた。

いつものように、祐実は1杯目にシャンパンを、純はビールを頼む。食事中に重い話はしたくなかったので、お互いの近況報告をしながら、料理を堪能した。

まるで別居したことを忘れてしまうような、しかしこれが2人でする最後の食事なのだろうと、祐実は頭のどこかで、そう思っていた。


祐実の気持ちに、純はどう応える?




食事が終わり、2人で銀座をぶらついた。一緒に住んでいた頃は、週末に銀座で買い物したり、映画を見たり、数々の思い出がある場所だ。

もう1軒行くには気づまりで、しかしまだ肝心なことを話していない2人は、日比谷公園に向かった。

「あのさ……」

ベンチに座った瞬間、2人とも同時に声を発した。祐実は早口で、こう言った。

「あ、ごめん。あの豊洲のマンションにある荷物、邪魔よね」

「いや、いつでもいいよ」

そう答える純は、何とも歯切れが悪そうだった。祐実は思い切って、ずっと引っかかっていたことを切り出した。

「……ずっと言っていなかったことがあるの。私ね、妊娠してないと分かった時、ほっとしたのよ」

祐実が思い切って言うと、純はこう答えた。

「分かっていたよ」

それを聞いた瞬間、泣きだしたい気持ちになった。自分との子どもを望んでいないと分かった瞬間、純はどんな気持ちだったのだろう。

しかしだからこそ、祐実はきちんと自分の気持ちを伝えようと決心した。

「……ごめんなさい。私たち、もう別れましょう」

横に座っていた純は、泣いていた。

別居するまでの話し合いで何度も「別れましょう」「別れたくない」を繰り返してきたが、この日ようやく、その話し合いに決着がついた。



別居して、3ヶ月の月日が経とうとしていた。

これまで何となく、ふっきれなかった。今まで必死に築き上げてきたはずのものを壊していいのか。「生涯をともにする」と思っていた相手との決別は、並大抵のものではない。

この結婚は“失敗”だったのだろうか?

それを考えるのは、とても苦しかった。しかし、まずそれを受け入れてからでないと、前に進めそうにはない。

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離婚を決意した祐実。寛との関係は?