オムロンの創業者である父・立石一真に感化を受けその創業理念を後世に残すためにということで、創業者から薫陶を受けた社員の思い出を綴った小冊子をまとめようという動きがある。そこに取り上げられた多くの社員の思い出を読んでいると、父の人物像が読み取れて面白い。

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最近、日本企業の管理体制をめぐる課題が浮き彫りになる事例が散見される。今ほど企業統治とサスティナリビリティ(持続可能性)の重要性が問われている時はないと思われる。
M&A(合併・買収)で傘下に収めた海外子会社で減損などの損失計上を迫られたり、現地法人の不適切会計が発覚したりして決算を訂正したりする例も相次いでいる。人口減少などに伴う消費減退で国内市場が頭打ちになる中、日本企業は成長のチャンスを外に求めてグローバル化を展開。大半の企業は着実に地歩を固めているが、一部企業で海外子会社の管理体制構築が経営課題となっている。

オムロンの創業者である父・立石一真に感化を受けその創業理念を後世に残すためにということで、創業者から薫陶を受けた社員の思い出を綴った小冊子をまとめようという動きがある。そこに取り上げられた多くの社員の思い出を読んでいると、父の人物像が読み取れて面白い。先を読む力(先見性)、言行一致、人使いのうまさ、やさしさ、思いやり、厳しさ、積極性、執念、社会に対する愛、などなどを持ち合わせていたと思う。

特に、事業に関しての先を見る力では、部品からスタートし、工場のオートメーション(自動製造装置)、社会システムのオートメーション(自動券売機、自助動改札、銀行の窓口業務のCD、ATM、両替機、CAT)、社会インフラのオートメーション(交通信号、交通管制)。創業者が常々言っていた、「人間は元気で長生きするのが夢である」を実現するための健康医療機器への参入等、すべて日常利用されている社会を実現したことの功績は大きいと思う。

昭和8年に大阪・塚本で創業した会社は、大阪大空襲で全滅し、再挑戦の地を京都、右京区花園に求めて、当時の有名な嵐寛寿郎のスタジオを仮工場として借り、昭和23年に立石電機を再建させたが、その当時、労働争議に巻き込まれて、大変に苦しんでいたことを今でも覚えている。

しかも、その厳しい状況の中、昭和25年に母が亡くなり、我々7人の子供はどうなるのかと心配したが、父の忍耐力と愛情で心配することなく、それぞれの道を歩ませてくれたことに感謝している。

これを可能にしてくれたものは、偶然とは言え、結婚して嫁いだ長女(私の姉)の義父が亡くなられたあと、10年後に我々兄弟妹7人が、是非父のお茶飲み友達に来てくれないかと頼みに行ったところ、恥じらいながらもその頼みを義母は受けてくれたこと。その後、義母が育ての母として我々を育ててくれたからである。そのことは、家族の安心感を与えてくれたのである。

我々兄弟姉妹には。それぞれに父の思い出がある。私にも言い尽くせないほど多くの思い出がある。その中で特に語っておきたい3つを語りたい。

一つ目は、兄弟の中でも私は、一番やんちゃだった。中学生の頃、近所の友達の中にひどいいじめっ子がいた。彼が弱い女の子をたびたびいじめるのを見て。私は正義感に駆られて逃げ帰った彼の家に、今では存在しないが、“肥溜め”を天秤棒で担いで彼の家に押しかけ、「逃げるな、出てこい!」と叫んでまき散らした。さすがに彼の父親が来て、父に「けしからん、謝れ!」と言ってきたが、父は「子供のけんかは子供の世界、親が口出しするものではない」と彼をたしなめた。彼の父親が帰った後、父は、ひとこと「二度とああいうことはしないこと」と言ってくれて、私は救われた。

二つ目の思い出は、末弟が生まれてまもなく、毋が亡くなり、夜中のおしめの交換を長女と一緒にしていた父の姿が今でも目に浮かんでくる。すでに長女は婚約が決まり、式の日取りも決まっていただけに、父に結婚式を延期したいと申し出たが、「絶対だめ、予定通り」と諭してしていた父親の姿である。