「結婚=ゴール」なんて考えは、古すぎる。

東京の恋愛市場は、結婚相手を探す女で溢れかえっているが、結婚はゴールではない。そんなものは、幻想だ。

吾郎、34歳。長身イケメン、東大卒、超エリートの企業法務弁護士。

吾郎いわく、結婚をM&Aに例えるならば、M&A実施の調印式=結婚式であり、PMI(買収実施後経営統合)=結婚後の生活となる。東京婚活市場において、PMI軽視の風潮は非常に強い。

とか言いながら、ちゃっかり英里と結婚した吾郎。しかし、彼のアンチ結婚主義は変わらないようだ。

引き続き、既婚者たちの結婚生活を、彼独自の目線で観察していこう。




吾郎は2週間も前から、この日が待ち遠しくて待ち遠しくて、仕方がなかった。

何を隠そう、今日から1週間、妹の瑠璃子が我が家に滞在するのだ。

吾郎の結婚前はしょっちゅう兄の家に入り浸り、英里とゴタゴタを繰り返していたときは、陰ながらおせっかいを焼いていた可愛い妹

しかし、彼女の甲斐あって吾郎がせっかく結婚を決意したのも束の間、商社マンの夫のバンコク駐在が決まり、瑠璃子は早々と海の向こうへ旅立ってしまったのだ。

「吾郎くんがそんなにシスコンだなんて、知らなかったわ...」

そして吾郎は、自分のすべてを肯定し受け入れてくれる妻の英里さえドン引きするほど、妹の海外生活をひどく心配していた。

幼少期から甘えん坊で、常に周囲から守られていた温室育ちの妹が、バンコクという異国の土地になんか馴染めるはずがない。

小さな虫にも怯える潔癖症だし、クセのある食べ物も苦手だ。語学だってもちろん疎い。駐在妻の人間関係だって、かなりエグいと聞く。

吾郎は兄として、あの雑多な国に瑠璃子を連れ去った商社マンの夫を憎みさえしていたのだ。


一時帰国した妹・瑠璃子の意外な変化とは...?


「お兄ちゃん、英里さん、ただいまぁ♡」

友人の結婚式に出席するため一時帰国した瑠璃子は、思ったより元気な姿で帰国した。

首元にはカラフルなスカーフをちょこんと巻き、見た目はすっかり駐在妻そのものだ。

しかし、やはり買い物くらいしか楽しみがないのかもしれない。向こうでの生活が辛いぶん、久しぶりに東京の空気を吸ってテンションが上がっているのだろう。

「あのね、おみやげたくさん買ってきたの!」

早々に開いた巨大なスーツケースは見慣れない文字が印刷された袋で溢れており、吾郎の六本木一丁目のマンションの部屋には、一気に南国の生暖かい空気が漂うような気がする。

「この香辛料とココナッツミルクでカレー作ると、すっごく美味しいの!英里さん、今日一緒にお料理しない?」

吾郎は瑠璃子の発言を、空耳かと疑う。妹は刺激物を全面的に口にしなかったはずだし、ココナッツミルクなんぞ毛嫌いしていた。

しかし何より驚いたのは、兄の顔を見ればとにかく高級鮨ばかりねだっていた妹が、長いフライトの後で率先して料理を作るなどと言い出したことだ。

「お前、料理は嫌いじゃなかったか?それに、今夜はお前のために『乃木坂 しん』の予約を入れてあるが...」

「えー!そうなの、嬉しい!さすがお兄ちゃん!じゃあ、お料理は明日にするね。瑠璃子、バンコクでお料理得意になったの。楽しみにしてて」

英里と一緒に楽しそうに荷解きをする妹を、吾郎は虚を突かれたように、ただぼんやりと眺めていた。



「あー、やっぱり和食は落ち着くなぁ。こんな優しい味、久しぶり」

『乃木坂 しん』の見た目も美しい八寸を、瑠璃子は愛おしそうに口に運ぶ。




「それにしても、るりちゃん、思ったより元気そうで良かったわ。吾郎くん、ものすごーく心配してたの。あまりに辛そうだったら、ウチに住まわせるなんて言ってたのよ」

英里が暴露すると、妹は細い首をのけぞらせて、ケラケラと笑う。

「笑いごとじゃない。お前、何度も泣きながら電話をかけてきただろう。部屋に害虫だのトカゲが出たとか、言葉が通じなくて恐いだの......」

「やぁだ、お兄ちゃん。そんなの最初の1週間くらいよ。バンコクなんて、慣れれば日本人はすごく住みやすいの。それに、トカゲじゃなくてヤモリよ。あれも慣れると、けっこう可愛いの」

虫や爬虫類に出くわすと、この世の終わりのように泣き叫んでいた妹。

彼女は短期間の海外生活によって、確実に変わっていた。


一見、かなり成長したように見える瑠璃子だが...?!


妹の“兄離れ”に心切なくなる吾郎


「ねぇ、知ってる?ヤモリって、“家を守る”って意味があるから、悪い生き物じゃないのよ。それに、泣き声も可愛いの。私が帰ると“キャッキャッ”って鳴くから、最近何だか愛着が湧いちゃって」

ヤモリをまるでペットのように朗らかに語る瑠璃子は、吾郎の知る神経質な妹とはかけ離れている。

「しかしお前、言葉は苦労してるんじゃないのか...?」

「それがね、今お友達と一緒に英会話とタイ語教室に通ってるの。私の生活範囲なんてお買い物とマッサージくらいだから、意外と大丈夫よ」

当初は瑠璃子の夫専属の車の運転手とも全くコミュニケーションが取れずに怯えていた妹が、得意顔で片言のタイ語を披露する。

「るりちゃん、頼もしい!私たちもいつか遊びに行きたいなぁ」

「ぜひ!私、お買い物も食事も、いろいろと案内できると思うわ。旦那の車もあるし」

英里の言う通り、瑠璃子は南国の地で、確かに強くなっていた。




本来喜ばしいことには違いないが、何となく胸の内がモヤモヤとする。

楽しそうにバンコク旅行の計画を立て始めた女たちを尻目に白ワインを煽ると、そんな複雑な心境を察したように、英里がさり気なく吾郎の手を撫でた。

「るりちゃん、見違えちゃったね。吾郎くん、“兄離れ”されちゃったみたいで寂しいんでしょ?」

瑠璃子が化粧室へと立つと、英里が悪戯ぽく笑う。

「......別に」

「るりちゃんの海外生活は私も心配してたけど、あんなに成長するものなのね。旦那様のためにお料理なんかも頑張ってるみたいだし、素敵だわ」

口に出したくはないが、妻の言う通りだった。

「東京から離れたくない」と駄々をこねていた妹は、知らぬ間に逆境を乗り越え、目を見張るほど成長していた。

東京ではのらりくらりと暇そうな専業主婦生活を過ごし、他力本願で、夫への愛情も薄かった瑠璃子。悔しいが、海外で夫婦の絆が深まっているのが吾郎にもよく分かる。

「るりちゃん、バンコク生活が楽しそうで本当に良かったね」

“兄離れ”にすっかりヘソを曲げてしまった吾郎の代わりに、英里が率先して会話をすすめる。

「本当にそうなの。海外駐在がこんなに天国だって思わなかったわ。何だか人生がフィーバーした気分。

旦那のお給料だってアップしたし、運転手さんもいるでしょ。物価は安いし、家だってプール付きのコンドミニアムだし、最高よ。でも、一番良いのは...」

瑠璃子はグラスに残ったワインをぐぃっと飲み干し、したたかな笑みを浮かべて続けた。

「堂々と専業主婦でいられることね。東京で主婦なんて、もはや肩身が狭かったから。駐妻だと、東京と同じようなグータラ生活してても“海外で旦那さんを支えてエライ”って思われるのよ。この甘い汁を、あと3年は吸えるわ。うふふ」

高笑いする瑠璃子を目の当たりにして、夫婦は一気にガクっと力が抜ける。

「......そうか。それはよかったな」

他人であればここぞとばかりに批判してやるのだが、妹の変わらぬ姿に、吾郎はどこか少しホッとした。

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