真珠の耳飾りの女((C)Super Stock/アフロ)

 美術館を訪れ、1枚の絵の前に立つ。その意味について、名画を中心にストーリーが展開するアート小説を数多く執筆している作家・原田マハ氏が語る。

「そこは作品を描いた画家がいた場所。画家の魂が最もこもっている場所なのです。フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』を見ている自分が立っている場所に、フェルメールも立っていたんです。実際の絵を見に行くことの素晴らしさのひとつは、この体験ができることです」

 過去に商社でのアートコンサルティングや、森美術館(東京・六本木)で展覧会を企画するキュレーターを務めるなど、アートの専門家として活躍していた原田氏が作家に転身したのは40歳を過ぎてからのこと。

「子どものころから絵を見るのも描くのも大好きでした。物心ついたころから、自分の傍らには絶えず何らかの形でアートがありました。それで大学卒業後、美術の仕事に20年近く携わってきましたが、“大好きな絵をより多くの方に知ってもらいたい”という思いはずっと変わっていません。好きな絵が登場する小説を書けば、アートに興味のない方にもその絵を知ってもらえると思ったんです」

 原田氏が6月に上梓した著書『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』(集英社新書)は、美術史において大きな転機を与えた絵画、美術の新時代の幕開けとなった革新的な絵画など26作品を、独自の視点と体験を交えて綴った1冊だ。数多くの歴史に残る名画の中から、どのような基準で選んだのか。

「美術史的に重要な作品であることは言うまでもないですが、さまざまな絵と付き合ってきた私の人生を通じて、特に忘れられないエピソードや個人的な思い入れがある作品を選びました」

 過去と現在を往来し、画家と原田氏の人生が1枚の絵を介して交錯する場面が記されている。

◆「この1枚で美術史は塗り替えられた」

 最初に紹介するのは、原田氏が「この1枚で美術史は塗り替えられた」と解説するピカソの『アヴィニヨンの娘たち』だ。

 18歳で初めてパリを訪れたピカソは、パリ時代初期の「青の時代」を経て、明るい色調の「ばら色の時代」で次第に名声を得ていく。しかし、それに安住せず、アートの既成概念を打開する衝撃的な次の一手を模索していた。満を持して世に送り出したのが、『アヴィニヨンの娘たち』だった。この作品とピカソは、20世紀初頭のキュビスム(立体派)を牽引していく存在となった。

 10歳のころに初めてピカソの作品(『鳥籠』)と大原美術館(岡山)で対面した原田氏は、「ピカソという画家を知らずに過ごしたとしたら、私はアートとこんなにも深く付き合うことはなかっただろう」と述べる。ピカソは、原田氏の人生にも大きな影響を与えたようだ。

 そのピカソが「私の唯一無二の師」と尊んだセザンヌ。原田氏が著書の中で選んだセザンヌ作品は、妻オルタンスを描いた肖像画『セザンヌ夫人』だ。

 南仏生まれのセザンヌは銀行家の父を持ち、裕福な家庭で育った。画家になる夢を抱いて22歳の時、パリに出る。製本所で働くオルタンスと出会ったのはその8年後。原田氏がセザンヌとオルタンスの関係を説明する。

「2人の間には一人息子が生まれましたが、セザンヌは長期間、オルタンスと息子の存在を故郷の父に隠し続けました。身分違いの結婚を反対されるのを恐れるというより、仕送りが止められるのを恐れていたようです。正式に“セザンヌ夫人”となるまでに、出会いから17年が経過していました」

 一見、不機嫌そうな、つまらなさそうな表情のセザンヌ夫人。だが、「この1枚を見つめれば、いかにセザンヌが妻に熱いまなざしと愛情を注いでいたかがわかる」と原田氏は語る。

 18〜19世紀の肖像画の依頼主の多くは、王侯貴族や富裕層だったが、豪華に着飾り、地位や富を誇示するような没個性の特権階級の肖像画と比べると、『セザンヌ夫人』の純朴な美しさがより際立つのだという。髪をおろしている姿、豪華ではないがよく似合っている衣服。アンニュイな雰囲気の表情。妻の飾らない個性を描いた感性と手腕を原田氏は絶賛する。

「マネやモネなど印象派の画家たちも肖像画を残していますが、風景や当時の風俗の一部として描かれたように感じます。画家が自分の思いや個性を、“自分以外の人物”の肖像画に重ね合わせることは、セザンヌの登場まではほとんどなかったのではないでしょうか」

◆「タイムスリップしたような感覚に…」セザンヌとの出会い

 原田氏が『セザンヌ夫人』と初めて会ったのは、20年以上前、テート・ギャラリー(ロンドン)でのセザンヌ回顧展でのことだった。展覧会でいくら感動しても複製画は買わない原田氏が「身近に置いて、毎日眺めたくなった」本作の複製画は、今でも書斎の壁に掛けられているという。

 セザンヌの絵は、冒頭の“絵の前に立つ意味”を原田氏に気づかせた作品でもある。2015年2月、小説の取材で厳寒のニューヨークを訪れた際のことだ。偶然、メトロポリタン美術館で開催されていたセザンヌの特別展。妻オルタンスを描いた肖像画ばかり30点以上を集めた会場で、1枚の絵の前に立った。

「こちらを見つめるオルタンスの瞳を見つめ返していると、ふと気が付いたんです。絵の中のオルタンスが見つめているのは夫セザンヌ。私はセザンヌのまなざしで、彼が描いたオルタンスを見つめている。時空を超えて、ふたりがいる場所に連れていかれたような、まるでタイムスリップしたような感覚になりました。これはインターネットや本などでは得られない体験。その作品の前に立たないと得られない体験なんです」

 ハードルが高いと思われがちなアートの世界に気楽に触れてもらうために、自身の体験を織り交ぜて解説しようと考えた。

「私の個人的な体験を入口にすれば、読者の方も入ってきやすいのではないかと考えました。ゴッホがどのような心持ちで『星月夜』を描いたのか、モネがどんな人生を送ったのかなど、作家が個人として体験したことを知ると、作品をぐっと身近に感じるものですよね。これは絵と長く付き合ってきたから得られた感覚です」

 描かれた背景にある物語に想像をかきたてられるのが、謎の多いフェルメールの作品の中でも最もミステリアスな作品とされる『真珠の耳飾りの少女』と、ナチス・ドイツの台頭を機に数奇な運命をたどることになったクリムトの最高傑作『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I』だ。

「フェルメールが描いたあの少女が誰なのか、諸説はあるもののはっきりしたことはわかっていません。また、クリムトの裕福なパトロンだったオーストリアの実業家が依頼した妻の肖像画『アデーレ』は、日本美術の表現が取り入れられた豪華絢爛の一言に尽きる作品。悲しい歴史と熾烈な法廷闘争を経て、現在、ニューヨークの個人美術館ノイエ・ガレリエが所蔵、展示しています」

 天才ピカソさえ思いつかなかった手法をやってのけたのが、アメリカの画家ジャクソン・ポロック。金字塔の『Number 1A,1948』を原田氏が説明する。

「自分だけの絵画手法を探求し、“何か新しいことをやろうと思うと、必ずピカソがやってしまっている”と苦悩していた彼は、ついにやり遂げます。それまでの画家がイーゼルや壁などに立てかけていたカンヴァスを、そこから引き剥がし、床に寝かせ、絵筆から絵の具を垂らして“俯瞰した世界”を表現した最初のアーティスト、作品となりました」

◆現地で作品を見ることの意味とは?

 今回紹介した作品はどれも美術館に展示されており、現地に行けば見られる。原田氏が読者に伝えたいのは、「本を読んで満足しないでほしい」ということだ。

「私が書く本はアートへのよき入口であり、よき出口であってほしいと思っています。私の作品が入口となり、アートに興味を持ってもらったらそれでおしまい、ではなく、私の作品から出ていってほしい。リアルな美術館へ出かけて行って、リアルな絵に会いに行ってほしいんです。

 インターネットや本などで見る絵と、実際に見る絵とでは感動もまったく違います。特に一見するとわかりにくい現代アートは、空間の中で見ていただくのが本当の見方だと思います。今回紹介した現代アートのポロックの作品は、“えっ!?”と驚くくらい大きいですよ」

 日本国内にも、生きているうちに見るべき名画はたくさんある。そのひとつに、東京国立近代美術館収蔵の東山魁夷作『道』を挙げる。

「仕送りもなく家賃を稼ぐためにアルバイトに明け暮れていた学生時代。将来に不安を感じていた頃に、東山魁夷の著書から『道』という作品を知りました。それから30年以上にわたり、いつか会いたいと思っていた『道』。ようやく対面できたのは、作家になって3年目のことでした。私の歩いてきた道は決して平坦ではなかった。でも、歩みをやめない限り、この世界は美しい。人生は素晴らしいという思いが去来しました」

 現在は空前のアートブームであり、海外から名画が来日する特別展には数時間待ちの行列ができるほどだ。

「日本で見られるチャンスは逃すべきではないですが、この本で紹介している作品の中には、美術館から1ミリも動かせないものもあります。興味を持った画家や作品があれば、ぜひ現地に会いに行ってください」

 パソコンを切り、本を閉じて、美術館へ出かけよう。生きているうちに見るべき絵と出会うために。時空を超えた感動が、そこに待っている。

【プロフィール】原田マハ(はらだ・まは):1962年、東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科および早稲田大学第二文学部美術史科を卒業。馬里邑美術館、伊藤忠商事を経て、森ビル森美術館設立準備室在籍時に、アメリカのニューヨーク近代美術館に派遣され勤務。2005年『カフーを待ちわびて』で日本ラブストーリー大賞を受賞し、デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で山本周五郎賞受賞、2017年『リーチ先生』で新田次郎文学賞を受賞。最新作『アノニム』が角川書店より発売中。

※週刊ポスト2017年7月14日号